詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子「静かに、毀れている庭」

2007-10-30 09:59:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 岬多可子「静かに、毀れている庭」(「左庭」9、2007年09月25日発行)
 「静かに、毀れている庭」の「 敷石のあたり」がとてもおもしろい。

棲みついている小さな蜥蜴
金色を帯びた輝き

濡れた表面を思わせて
ですが 意外にも
乾いている皮膚の光です

わたしの名が刻まれている革
の 細身の筆入れにおさめると
鳴かないのをよいことに
じりじりとファスナーを閉める

すると 彼は諦念の筆
青黒い血を吐きますでしょう
青黒い血で書きますでしょう

わたしは代わってそこに棲み
まるごと 脱ぐのだ
何度も 皮を

そして
敷石と敷石のあいだを埋めている苔に
眠る

 蜥蜴から革の筆入れ、そして革の筆入れから蜥蜴になってしまう。その「変身」の過程と脱皮の関係がおもしろい。「じりじりとファスナーを閉める」という日常が気持ち悪く、その気持ち悪さにリアリティーがある。「じりじり」というのは単にファスナーの閉まる音(閉める音)というよりも、その感触をこころの奥底で、いやだいやだと思いながら、いやだいやだと思えることを楽しんでいる風がある。触覚と聴覚がいりまじりながら、その入り交じる感覚のなかで岬が「変身」する。
 この感覚の入り交じりは、突然、「筆入れ」で起きるのではなく、最初からはじまっている。「金色」という視覚が「濡れた」という触覚と視覚の入り交じった世界へかわり、「濡れた」が「乾いた」に変わる。「乾いた」から「焼いた」という「火」の連絡があり、「じりじり」という音には太陽の「じりじり」と空気を乾かせていく感覚も混じる。
 感覚の入り交じり、感覚の交代があるから、「彼」(とかげ)と「わたし」(岬)の入れ代わりも起きるのである。

青黒い血を吐きますでしょう
青黒い血で書きますでしょう

 ここでは、蜥蜴と岬が一体である。蜥蜴が青黒い血を吐くから岬がことばを書くのか、岬がことばを書こうとするから蜥蜴が青黒い血を吐くのか。蜥蜴が青くらい血を吐くから岬が奇怪なことを書くのか、岬が不気味なことを考え、書こうとするから蜥蜴がその世界にふさわしい青黒い血を吐くのか。
 どちらでもいいのだ。
 そんなふうにして、入れ代わる。入れ代わることで、岬は脱皮し、脱皮の果てに眠る。--この、真夏の感覚が、とてもいい。



 同じ号に、江里昭彦の「丸山真男『忠誠と反逆』を読む」という俳句が掲載されている。江里は、私の知らないあいだに伝統俳句(?)のような深さと落ち着きを身につけていた。

命綱もたぬけものが峰走る

狛犬の肛門さがす官弊社

みちのくや鮭に仏と鬼とあり

 凝縮しながら、ぱっと広がる。求心と遠心、遠心と求心の関係がとてもいい。漢字とひらがなのバランスも美しい。俳句はいいなあ、と思わず感嘆してしまう。文字のバランスが美しいなあ、と感嘆してしまう。こういう文字バランスの美しい世界は「現代詩」にあるだろうか。ちょっと思い出せない。

海にきて喪服吊るすべき崖さがす

 でも、これはいただけない。「べき」がうるさい。ふくよかさがない。と、俳句の門外漢である私には思える。


コメント
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