詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「泥炭地」

2007-10-18 10:03:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「泥炭地」(「鰐組」224 、2007年10月01日発行)
 私はときどき、私は他人の詩の妙なところが好きになるなあ、と自分自身で疑問に思うことがある。たとえば、坂多瑩子の「泥炭地」。

ゆめが深くなっていくようだった
水ぎわまで
こんもりと茂る草にそって
母や妹たちに出会った
私は
よく働いた
ガラスを磨いたり
玄関を 時間をかけて掃除したり
手順どおり
きちんと仕事をやり終えたが
ゆめは
もっと深くなっていくようだった

 前半の3分の1だが、「ゆめは/もっと深くなっていくようだった」で、私はこの詩が突然好きになる。「ゆめは深くなっていくようだった」という最初の行を読んだときは何も感じなかったのに、「もっと」ということばが挿入され、改行がくわわった瞬間に、坂多の世界に引き込まれてゆく。
 ああ、そうなんだ。夢というのは「もっと」の世界なのだと納得する。怖いことも楽しいことも、そして理不尽なことも「もっと」と加速することで夢になってしまう。「もっと」がなければ夢にはならない。「もっと」に引きずり込まれて、私たちは夢から逃れられなくなる。
 読み返すと、坂多のこの詩には「副詞」が多いのだが、その副詞のそれぞれが肉体にぴったりあっていて、とても自然だ。「よく」働いた。「きちんと」仕事をやり終えた。そうしたことばが、たぶん坂多の肉体、そして人間性を浮かび上がらせるので、「もっと」もしっかり肉体を引き込むのである。坂多の夢の中へ、私は肉体ごと引きずり込まれ、まるで自分自身で夢を見ているような気持ちになる。

母の目はきつく
骨の山をみている
私にとっても
まったく知らない人たちではなさそうなので
みてみぬふりをすると
母は
ゆっくりとだがすばやく
私の目のなかに
入ってきた

 「まったく知らない人たちではなさそうなので/みてみぬふりをすると」。坂多は、副詞と同時に、こうした日常の肉体にしみついた動き、肉体で悟ってしまうこころの動きを、的確にことばにして、私を誘い込む。そうしたことばが的確なので、

ゆっくりだがすばやく

 といったような、矛盾したことばが、矛盾ではなく、それ以外の表現はありえないという感じで「もっと」私を引きずり込む。
 
 詩の内容(?)は、坂多が賽の河原(?)のようなところで母と妹たちに出会うというような夢を報告しているのだろうけれど、そうした内容・意味は、詩を味わうのに、私の場合はあまり関係がない。内容・意味には私はあまり(ほとんど)興味がない。
 内容・意味を語るときの口調(文体)に興味がある。
 「よく」「きちんと」「もっと」。そんな副詞の使い方に、坂多という人間を感じる。会ったことも話したこともないけれど、坂多がちゃんと肉体を持った人間だと感じられるので、そのことばにひかれるのである。信頼できるのである。
 この詩は坂多の作品のなかではとびぬけていい作品というわけではないかもしれないが、妙に好きなのである。
コメント
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