詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「折れ曲がった耳」

2007-10-08 22:15:25 | 詩(雑誌・同人誌)

 北川透「折れ曲がった耳」(「詩歌句」終刊号、2007年秋)
 「つちふまずつきあげてくる潮風をきいているみみさらわれてゆく」という彦坂美喜子の歌を引いたあと、北川のことばがつづく。彦坂のことはばに向き合い、北川のことばが動いてゆく。このとき、北川のことばはどれくらい彦坂のことばから自由でいられるのだろう。

どこの家の物干し竿にも、よく伸びた細い耳が、何枚も干されている。
 
 この書き出しを読んだとき、私は、その干された耳を「イカ」のように感じた。というか、海辺に吊るして干してあるイカのように耳が干されている風景を思い浮かべた。そしてそれがとても自然な感じで目に浮かんだ。イカが突然、目の前に浮かび、そのあと北川のことばが追いかけてきた--といってもかまわないくらい、その情景がくっきり見えた。
 私自身が彦坂のことばにとらわれているのかもしれない。北川の引いている彦坂のことば--それにひきずられて、その延長線上に北川のことばを読んでいるのかもしれない。北川ではなく、私自身が彦坂のことばから完全に自由になりきれていない。
 そのせいだろうか、北川のことばが、必死になって彦坂のことばを拒絶しようとして、拒絶しようとすればするほど、その「拒絶」という関係に引き込まれ、影響うけつづけているように感じる。いや、これは北川の問題ではなく、私だけの問題だろうか。

きれいに洗われて染み一つ、付いていない耳。来る日も来る日も晴天が続き、乾いた黄砂が舞っている。耳達はまず産毛を、次いで柔らかな厚みを失っていった。

 これも海岸の風景である。潮風が吹いている。そして、干される耳はしだいに水分をさらわれ、柔らかさを失い、厚みをうしなっていく。まるで、ここに書かれていることが当然のことのように見えてくる。「耳」はイカの耳なんかではなく、人間の耳であるのに、それが干されていることが不自然ではないように感じる。
 そして、これは北川が感じたことなのかどうかわからないが、「干されている」「耳」というのは、私には「潮風」を聞いた「記憶」のようにも思えはじめるのだ。ほんとうの「耳」ではなく、音を聞いた「記憶」としての「耳」--つまり、比喩のように感じられる。
 そんなふうに感じた瞬間、そこから抒情が噴出する。

それからも、恋人たちが愛し合うための貝殻の形態を失い、ぐるんぐるん回る幾つかの幸福な輪を失い、意識の泥に通ずる折れ曲がった導管を失い、雀蜂の襲撃を恐れる薄い蓋を失った。

 もう、ここからは「耳」は完全に意識というか、記憶の何かであるように感じられる。しかし、それは私だけの反応かもしれない。北川はちがうことを書こうとしているのかもしれない。ちがうことを書こうとしていても、そのちがうことよりも、私は私の感想(?)を追いかけてしまいはじめている。半分くらいは、北川が何を書きたいか、何をしたいかはどうでもよくなって、私自身が、北川と彦坂のことばの間で揺れているのを感じる。そして、私が読んでいるのが北川のことばの方なのか、それとも彦坂のことばの方なのか、実はよくわからなくなる。
 たしかに引用しているのは北川のことばなのだが、北川のことばを引用するたび、最初に掲げた彦坂のことばが意識の奥で北川のことばに作用しているのを感じてしまう。彦坂のことば抜きにしては、北川のことばを読むことができなくなっている。
 恋人たちの抒情、潮風を聞いた記憶、つちふまずという、ふれることのない肉体--そういう抒情にふれたあと、(というのは、あくまで私の印象であって、北川はちがったことを考えているかもしれないのだが)、北川のことばは少しずつ変化する。

耳たちが陽気な鼓笛隊の演奏するワギナを失うことを、どんなに恐れたことか。更に耳たちはかつて音楽にしびれた三色菫を失い、煙草の煙と共に、一時代を支配した弁証法を失った。

 しかし、この変質も、「記憶」--時代の記憶と、どこかで通じている。耳の記憶。耳の記憶が吊るされて干されている。そうした夏の(というのは、私の思い入れ)海岸。どうしても彦坂のことばにひっぱり返されてしまう。
 そして、ひっぱり返されながら、徐々に、北川がそのひっぱりかえしてくる彦坂のことばの力にあらがっていることもわかってくる。
 (ほんとうは、ここから感想がはじまるべきなのかもしれないのだが……)
 そして、

一本の突起する線、ぺらぺらの皮質に還元された耳は、もはやどんな機器にも無関心だった。

 という一行にふれた時、あっ、と思う。え、どうしてこんなところまで来てしまったのか、驚く。思わず、最初に戻って読み返してしまう。
 もうそうなると彦坂のことばはどうでもよくなる、といえばいいすぎだけれど、どうしてこんなぐあいに遠くまで動いてきてしまうのか、その北川のエネルギーそのものを知りたくなる。
 意味とか抒情とかはどうでもいい。北川のことばはなぜこんなにも動いてゆくのが、動くことだけをめざしているか--そのことが突然知りたくなってしまうのだ。「無関心」さえも抒情になってしまう北川のことばの、ことばを動かしていく力そのものの秘密を知りたくなってくる。

 --でも、この私の関心は、もしかするとほかのひとには関心がないことかもしれない、一般に詩を読むことと信じられていることからはまったく無関係なことかもしれないと思いながらも。
 あ、私も「無関心」ということばを使ってしまった。
 北川のことばは、汚染力(?)が強い。気をつけなければ、と思う。

 追記。「汚染力」というのは、いい意味で使っている。誤解しないでください。「汚染力」って何と問われたら困るのだけれど。


 もうひとつ、追記。
 今回の北川の作品は3部構成になっている。そしてそれが「洗濯ばさみ」→「物干し竿」→「竹竿屋」と、それぞれの最初の方で変化してゆく。人間の想像力は、北川のような達人でも、やっぱり一つのことがらにひっぱられるのだと思うと、ちょっと安心、という感じもする。これは、ちょっと困る、という意味でもある。思わず、もっともっとことばに暴走してもらいたい、という気持ちになる。
 私のことばは、暴走から遠く、うじうじしているので。
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