詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「雲の間に間の恥かしさ」

2007-10-27 12:23:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「雲の間に間の恥かしさ」(「SPACE」76、2007年11月01日発行)
 豊原は豊原自身のなかにあるものと世間がうまく折り合いがつかないことを自覚している。そのことを私はいつも不思議に感じる。折り合いがつかないことを知っていて、そこから豊原自身の方へ身を寄せる、というと変だけれど、折り合いのつかないものをそのままの形でことばにしようとしている。豊原自身をいっさい修正(?)せずに、むしろ、修正しようとする世間、あるいは日本語自体の修正しようとする保守的な力を洗い流すようにして、「ぐい」と提出しようとする。既存のことばにあらがい、一種の反作用のようにして、力を獲得して噴出してくる。

僕は馬役だったので
まゆこさんの腰が
目前でゆらゆら。
もうドキドキ、息が詰まった。ドキドキが、
五・七・五・七・七、字足らずやったわ。

 「字足らず」ということばのなかに、世間と豊原との感情の違い、その自覚が噴出している。形式にあわせることのできないものがあることを、豊原は自覚し、逆に読者に、では「五・七・五・七・七」にできるか、と問いかけているようでもある。
 そんなことは、もちろんできない。あらゆる感情を定型で語ることなどできない。それでいて、日常は定型を求め、私たちは無意識に定型にあわせながら生きていることが多いのだ。
 その定型を、豊原のことばは突き破ろうとしている。

まゆこさんは僕の事が嫌いだったと思う。
話しかけたら「うーん、ちっと、ちっとね」
「うん、うん」「アハ。」何かが覚めていた。
幼稚園の頃から切り株のような生を過ごしていた。
だが。牛乳の空き瓶に草を入れ、舐めていると「キッチャナーイ」と
まゆこさんは言った。
(期待ないものが嫌われる)汚いもので汚いことを
心底好み、「アカン、これはアカンのだ。」
と、裁くことを恐れている。

 「アカン、これはアカンのだ。」と裁きながら、その「アカン」ものが豊原自身にあるということを受け入れ、それを提出する。まゆこさんの、たとえば「キッチャナーイ」ということばと一緒に。定型化されたことばと一緒に。どんなに定型化されたことばで語られても、豊原には、その定型にはおさまらないものがある。それが豊原だと、豊原のことばは語る。
コメント
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