寺田美由記『CONTACT』(思潮社、2007年09月30日発行)
「紅ずわい蟹と活さざえ」のなかにおもしろい部分がなる。郵便局からゆうパックで贈り物を送る。
「他人」の登場の仕方がおもしろい。「十日前に締切りました」と「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」の落差がおもしろい。両方とも郵便局員の言った口調をそのまま再現しているのか、それとも「十日前に締切りました」は寺田が要約したことばなのか。どちらでもいいのだが、ふたつの郵便局員の発言に落差があるということ、そして「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」という「方言まじり」(というのも大げさだが)のことばに、ぐいっとひっぱられる感じがいい。
「関係」というタイトルをもつ詩集だが、ここにあらわれる人間関係、その唐突でありながら、唐突でない部分のからみあいが、ここではとても正確にあらわされている。
土地に密着して暮らしていると、「他者」というものに二通りあることがわかる。(とくに、北陸などの、一種排他的な地域では完全に二通りの「他人」がいることがわかる。)ひとりは同じ土地で暮らしている「他人」、たとえば「家族」以外のひと。もうひとりは、その土地では暮らしていないひと、よその土地のひと。
このよその土地のひと、という感覚が、ぐいと濃密にあらわれる瞬間がある。
この詩の、たとえば「さざえ」の値段についての意識。さざえの値段はどこに住んでいても調べればわかる、と「よその土地」のひとは主張するだろう。それはそのとおりだが、そんなふうに調べてわかるというのと、調べなくてもわかるということとはまったく別のことである。その土地それぞれには調べなくてもわかることがたくさんある。そしてひとは調べなくてもわかることを基本に生きている。
後半に出てくる3行。
母がどんな生活をしているか、調べなくても寺田にはわかっている。そして、ひとはわかっていることしか、実は感じることができない。
ひとはいろいろな場面で、いろいろなできごとにぶつかる。そのたびに「他者」を発見するけれど、そういう「他者」は頭では理解できても、感情ではわからない。感情を共有できない。とまではいかなくても、感情を共有しにくい。
「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」は、寺田が積極的に共有したいことばではないかもしれない。しっかりと共有したい感情ではないかもしれない。しかし、共有してしまうしかないのである。そういう形で共有されるものがあり、そして、そのどうしようもない感情の共有こそが、仲間(?)と「他者」を区別するのである。
ことばが共有されたり、されなかったりするところに人間関係があると同時に、共有のされ方のなかにも人間関係がある。寺田は、共有のされ方に目を向けて、それを明るみに出そうとしているように私には感じられる。そういうものがくっきりでてきた時、その詩が輝いているように感じられる。
*
ことばの共有のされ方。そこに焦点をしぼっていくと、たとえば「ある日渋谷の街角で」と「世間話」の差が、とてもおもしろくなる。
ともに「他者」か唐突に、とんでもないことを言われる。「何を言ってる」と言うようなことである。しかし、そのことばの共有のされ方はまったく違う。前者は頭で理解し、頭で把握される。後者は体の内部で、その暗闇で共有される。
「世間話」の引用部分の次の行。
「世間話」の方は「他者」が言っていることは、寺田にはわかっているのである。わかっていて、なんとかしたいと思っているからこそ「しらっぱくれる」のである。そういうことばの共有が、「同じ土地」を生きるときに存在するのである。「同じ土地」に生きていると、「私」と「他者」を区別するのは「間」(ま)である。「間合い」である。ひとは、そして、他者のことばを聞くのではなく、実は「間合い」を読んでいる。
しらっぱくれる方はしらっぱくれ、しらっぱくれているとわかっていて、さらにことばをつづける相手。そう、それは「他者」ではなく、「相手」なのだ。「相手」といっしょにつくる時間というものがある。「世間」というものだ。「相手」との「間合い」が「世間」である。
「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」も「世間」のことばなのである。
そこでは、紅ずわいがないなら何にしようかなと揺れ動くこころの間合いが、読み取られ、その間合いのそこをぐいとさらってゆくものがあるのだ。「他者」にはこういうことはできない。郵便局員は、郵便局員から、突然「相手」として登場してきて、寺田をつきうごかしたのだ。「世間」のあり方を、「こんなもんだよ」と示すことばで指し示し、「世間」そのものに寺田をとりこんだのである。
「CONTACT」というと何かよくわからない。「関係」でもよくわからない。しかし、「世間」ということばでなら何か共有することができるものがある。寺田は、そういう「世間」のなかのもろもろを書いた時に、ことばがいきいきしてくる。しかし、そういう「世間」はもう限られた「場」にしか存在しない。
「CONTACT」というタイトルが象徴的だが、「世間」はもはや「外国語」になってしまっているのかもしれない。
そうであるなら、なおさら、と私は思う。
「CONTACT」などということばはつかわずに、「世間」そのものの奥へ奥へと、寺田はことばを耕すべきなのではなかったのか。介護のあれこれを書いた詩は、寺田にとっては現実ではあるのだろうけれど、まだ「世間」にまでいたっていない。そういう世界にも「世間」はあるのだから、次は、寺田にしか見えない「世間」をぐいとしぼりだしてほしい。そういうことができる詩人だと思った。
「紅ずわい蟹と活さざえ」のなかにおもしろい部分がなる。郵便局からゆうパックで贈り物を送る。
高価なものの方がいいだろうと
紅ずわい蟹を選んだら
資源保護のための禁漁期にあたるので
十日前に締切りましたと冷ややかな応え
仕方がないから活さざえ
ちょっと安すぎるかなと迷っていると
もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよと局員が言う
「他人」の登場の仕方がおもしろい。「十日前に締切りました」と「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」の落差がおもしろい。両方とも郵便局員の言った口調をそのまま再現しているのか、それとも「十日前に締切りました」は寺田が要約したことばなのか。どちらでもいいのだが、ふたつの郵便局員の発言に落差があるということ、そして「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」という「方言まじり」(というのも大げさだが)のことばに、ぐいっとひっぱられる感じがいい。
「関係」というタイトルをもつ詩集だが、ここにあらわれる人間関係、その唐突でありながら、唐突でない部分のからみあいが、ここではとても正確にあらわされている。
土地に密着して暮らしていると、「他者」というものに二通りあることがわかる。(とくに、北陸などの、一種排他的な地域では完全に二通りの「他人」がいることがわかる。)ひとりは同じ土地で暮らしている「他人」、たとえば「家族」以外のひと。もうひとりは、その土地では暮らしていないひと、よその土地のひと。
このよその土地のひと、という感覚が、ぐいと濃密にあらわれる瞬間がある。
この詩の、たとえば「さざえ」の値段についての意識。さざえの値段はどこに住んでいても調べればわかる、と「よその土地」のひとは主張するだろう。それはそのとおりだが、そんなふうに調べてわかるというのと、調べなくてもわかるということとはまったく別のことである。その土地それぞれには調べなくてもわかることがたくさんある。そしてひとは調べなくてもわかることを基本に生きている。
後半に出てくる3行。
山の裾野の生家で
だいこん しゃがいも たまねぎ はくさいを作りながら
一人暮らししている母を思う
母がどんな生活をしているか、調べなくても寺田にはわかっている。そして、ひとはわかっていることしか、実は感じることができない。
ひとはいろいろな場面で、いろいろなできごとにぶつかる。そのたびに「他者」を発見するけれど、そういう「他者」は頭では理解できても、感情ではわからない。感情を共有できない。とまではいかなくても、感情を共有しにくい。
「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」は、寺田が積極的に共有したいことばではないかもしれない。しっかりと共有したい感情ではないかもしれない。しかし、共有してしまうしかないのである。そういう形で共有されるものがあり、そして、そのどうしようもない感情の共有こそが、仲間(?)と「他者」を区別するのである。
ことばが共有されたり、されなかったりするところに人間関係があると同時に、共有のされ方のなかにも人間関係がある。寺田は、共有のされ方に目を向けて、それを明るみに出そうとしているように私には感じられる。そういうものがくっきりでてきた時、その詩が輝いているように感じられる。
*
ことばの共有のされ方。そこに焦点をしぼっていくと、たとえば「ある日渋谷の街角で」と「世間話」の差が、とてもおもしろくなる。
もう男性から
声をかけられることもなかろうと無防備に歩いていたら
ウンメイガカワルトコロデスと
若くて美しい女性に声をかけられた
ある日渋谷の街角で (「ある日渋谷の街角で」)
ある日たぬきがやって来て
たずねもしないのに話しかける
たしかにあんたは子だぬきどもに
ばかにされる素因はあるよ (「世間話」)
ともに「他者」か唐突に、とんでもないことを言われる。「何を言ってる」と言うようなことである。しかし、そのことばの共有のされ方はまったく違う。前者は頭で理解し、頭で把握される。後者は体の内部で、その暗闇で共有される。
「世間話」の引用部分の次の行。
けっ何を言うかとしらっぱくれていると
「世間話」の方は「他者」が言っていることは、寺田にはわかっているのである。わかっていて、なんとかしたいと思っているからこそ「しらっぱくれる」のである。そういうことばの共有が、「同じ土地」を生きるときに存在するのである。「同じ土地」に生きていると、「私」と「他者」を区別するのは「間」(ま)である。「間合い」である。ひとは、そして、他者のことばを聞くのではなく、実は「間合い」を読んでいる。
しらっぱくれる方はしらっぱくれ、しらっぱくれているとわかっていて、さらにことばをつづける相手。そう、それは「他者」ではなく、「相手」なのだ。「相手」といっしょにつくる時間というものがある。「世間」というものだ。「相手」との「間合い」が「世間」である。
「もろうた者にゃあ値段なんかわかりゃせんよ」も「世間」のことばなのである。
そこでは、紅ずわいがないなら何にしようかなと揺れ動くこころの間合いが、読み取られ、その間合いのそこをぐいとさらってゆくものがあるのだ。「他者」にはこういうことはできない。郵便局員は、郵便局員から、突然「相手」として登場してきて、寺田をつきうごかしたのだ。「世間」のあり方を、「こんなもんだよ」と示すことばで指し示し、「世間」そのものに寺田をとりこんだのである。
「CONTACT」というと何かよくわからない。「関係」でもよくわからない。しかし、「世間」ということばでなら何か共有することができるものがある。寺田は、そういう「世間」のなかのもろもろを書いた時に、ことばがいきいきしてくる。しかし、そういう「世間」はもう限られた「場」にしか存在しない。
「CONTACT」というタイトルが象徴的だが、「世間」はもはや「外国語」になってしまっているのかもしれない。
そうであるなら、なおさら、と私は思う。
「CONTACT」などということばはつかわずに、「世間」そのものの奥へ奥へと、寺田はことばを耕すべきなのではなかったのか。介護のあれこれを書いた詩は、寺田にとっては現実ではあるのだろうけれど、まだ「世間」にまでいたっていない。そういう世界にも「世間」はあるのだから、次は、寺田にしか見えない「世間」をぐいとしぼりだしてほしい。そういうことができる詩人だと思った。