しましまの岩佐 なを思潮社、2007年10月01日発行このアイテムの詳細を見る |
岩佐なをのことばば自在である。自由である。その自由さは「主題」からさえ自由である。「これこれのことを書こう」と、書く前に誰もが思うと思う。岩佐ももちろんきょうはこれを書こうと思って書きはじめるのだと思うけれど、その書きはじめようとも思った事にとらわれていない。書こうと思ったことと書いてしまったことが違っていても平気である。というふうに感じられる。
と、いうよりも、ある目的(主題)へ向けてことばを制御するということを、岩佐はしたくないのである。論理的にことばを制御するとき(哀しみの感情にむけてことばを制御すると、わりと簡単に抒情詩になる)、ことばは何かを失う。それを知っていて、その何かを失わないために、何かを守るために、主題を忘れたふりをするのだ、といった方がいいかもしれない。
そして、人間の意識というものは不思議なもので、忘れたふりをしたのに(あるいは、それがふりだったせいでもあるのだろうけれど)、忘れたはずのものがふたたびあらわれてきたりする。
そのあたりの、ふらふらとした動き、それをそのまま、岩佐はことばにする。そしてその、ふらふら、が「自在さ」を感じさせるのである。「ふらふら」が実はふらふらしているように見えて、主題がこぼれないようにていねいにことばを拾い集めているの結果なのだとわかる。あ、こんなふうに自在に、こぼれ落ちることばを拾い集めることができれば、世界はあたたかくなる、と感じさせてくれる。
「しましまの」は簡単に要約すれば、飼い猫が交通事故にあって死んでしまった。その猫のことを思い出している作品なのだろうが、死んだ猫のことを思い、一直線に哀しみを深め、涙を誘うというような「抒情」へこ動いてゆかない。そういうふうに動いてゆく感情があることを知っていて、なおかつ、そういう一直線の感情が一直線に進むときにけちらしてしまうさまざまなことがらをていねいに拾い集め、その一直線に進む感情をつつんでしまう。
あたたかいものが、そこから、生まれてくる。「自在」というのは、そんなふうに、どこかであたたかいもの、人間のこころを裏切らない何か、ナイフのような鋭利さを自慢するようなものではない何かなのである。
それは、たとえていえば「しましまの」に出てくることばで言えば、「お化け」ということばについた「お」のようなものである。
「お化け」だなんて
化け物に「お」なんかつけるから
やつらはつけあがるんだ。と
彼ノ人は言った
(ことを思い出している)
ふうん。
夕暮れの公演の築山の
てっぺんに猫が坐っている
うしろ姿のシルエット
ぽつねんと
ひとつ自慢をさせてもらえばわたしは
つけあがったお化けに
ひどい目にあわされたことがない
<ホントカニャ>
「お化け」の「お」を思い出す。「お化け」の「お」ということばのなかにあるもの、それは交通事故で死んでしまった猫のことを思い出すときのこころに通じる。「お猫」ということばはないけれど、飼っている人の気持ちのなかでは「お」がついている。そしてその「お」は猫をある意味で「つけあがせる」かもしれない。しかし、猫をつけあがらせるからこそ、猫と人間のあいだに温かな交流も生まれる。(と、人間は、ひそかに思うのであるが、猫はそう感じてくれるかどうかはわからない。)
「お」というのは、英語でいえば「定冠詞」(the)のようなものかもしれない。不特定な「化け物」「猫」、不定冠詞(a)つきの存在ではなく、その存在を知っていて、その存在とこころの交流(?)があることの証のようなものかもしれない。
何らかのこころの交流があるからこそ、不定冠詞でつづけることばと違って、余分なもの、交流することによってはじめて生まれてくる余分なものを捨てられず、集めてしまうのである。「論理」(主題)にとらわれず、自在に、こぼれ落ち続けるものを拾い集め、「お」の温かさ、定冠詞を使うときの人間のあたたかな気持ちを再現するのである。