詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イ・ムジチ合奏団「赤とんぼ」

2007-10-19 22:53:57 | その他(音楽、小説etc)
 イ・ムジチ合奏団「赤とんぼ」(アクロス福岡シンフォニーホール)

 モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ビバルディ「四季」などの演奏のあと、アンコール2曲目に「赤とんぼ」の演奏があった。日本人むけのサービスなのだが、これにちょっと驚いた。
 前奏があって、主題をチェロがソロで弾く。その瞬間、藍色の夕焼けが見えた。藍色の夕焼けというのは、ちょっと矛盾したことばだけれど、夕焼けの赤い色が消えていくあとを追うように広がる晴れた日の深い深い藍色。その幻のようなものが、すーっと頭の中をよぎった。もう赤とんぼも家へ帰り(?)、誰もいない。ただ赤とんぼを追いかけた記憶だけが残っている一日の終わりの空。その色を思い出した。夕焼けと、赤とんぼを思い出しながら帰る家路を思い出していたかもしれない。夕焼けと赤とんぼを思い出せるということ、心の中で夕焼けと赤とんぼがいっしょにいて、孤独ではないんだと思うときの、冷たい哀しみに出会ったような感じ。
 あ、いいなあ、と思った。
 しかし、それは一瞬のことで、あとはバイオリンがどんなに切なくメロディーを歌いあげても、なぜか「やかましい」という感じがした。イタリアに孤独がないということはないだろうけれど、孤独の種類が違うのだろうか。
 「赤とんぼ」の孤独、哀しさは、孤独だけれど「家がある」という安心感のある孤独。そこにはやさしい「ねえや」はいなくなったけれど、「ねえや」の記憶があり、また母がいる、父がいるという孤独だ。両親につつまれて、孤独を夢みる孤独。夕焼けとともに消えてしまった赤とんぼを思い出す孤独、藍色の空を思い出す孤独--抒情たっぷりの孤独だね、日本の孤独は。
 イ・ムジチ合奏団の孤独は、かなり性質が違って、何かを必死に主張していた。声に出して「孤独だ」と叫んでいる感じがした。そういう孤独は、ちょっと「やかましい」。孤独が抱える「思い出」が、どこかに消えてしまっている感じがした。


コメント
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