岡本勝人『都市の詩学』(思潮社、2007年07月31日発行)
「故郷」と「都会」は「族「シャーロック・ホームズという名のお店」」ではとても複雑だ。「都会」が「故郷」になるのか、「故郷」が「都会」になるのか、よくわからない。
「テムズ川を流れる水は非詩的に濁っていた」。これが「非詩的」がなかったなら、つまり「テムズ川を流れる水は濁っていた」なら「故郷」そのものだ。あるいは「非詩的」のかわりに「ぬくぬくと」とか「犬の息のように」でも「故郷」そのものだ。しかし、そうした「永遠」の時間が「非詩的」と置き換えられた瞬間、「故郷」であるべき水の風景が、自然が、突然「都会」になってしまう。「故郷」の水は「非詩的」に濁ったりはしないものだ。ここでは水は「故郷」の「永遠」を拒絶する、あるいは否定するという形で、「都会」そのものの「永遠」というものを浮かび上がらせる。「故郷」ではない、もうひとつの「永遠」。ここに「都会」の抒情がある。「都会」自身の抒情がある。
「F先生はチェッと指を鳴らして」も同じである。「落胆」は「故郷」にもある。「故郷」の人間も「落胆」はする。しかし、「チェッと指を鳴らし」たりはしない。そんな肉体表現を知らない。知らないがゆえに、岡本はその様子が印象に残り、それをそのまま書くしかなかったのだろう。「故郷」の背負ったままの岡本は、ああ、こんな落胆の仕方、こんな怒りの表現があるのだと、驚くだけである。そして、そこから「都会」の抒情は始まり、勝本はそうした「都会」の抒情をすくいとるように書き綴ることになる。
「青果市場」と「ロンドンブリッジ」の対比、そして「寒さのなかでコートの襟を立てて歩き出した」という行動--そこに「都会」の抒情がある。「青果市場」という永遠、「ロンドンブリッジ」という永遠に拒絶され、人間は(エリオットでさえ)、寒いときは襟を立てて歩くという「自然」の永遠。
スノッブという批判があるかもしれない。
特に次の2行。
この「ほんのり」という「故郷」の出し方が鼻持ちならないという感じを持つ人もいるかもしれない。(逆に、とてもいい、この行こそ最高だと思う人もいるかもしれない。)それにつづく数行(ここでは引用しない)はとりわけスノッブな感じが強いかもしれない。
けれども私は、ここに出てくる「都会」をスノッブとは呼びたくない。
先に引用した部分にあるこの1行、特にその「ほんとうに」に私は「故郷」そのものを感じる。岡本は、こういう一見スノッブに見える詩を書きながらも、ずーっと「故郷」を大事に肉体のなかにかかえている。この「故郷」が「ほんのり」としっかりと結びついている。
ほんとうに岡本はロンドンへ行ったのだ。彼の肉体はロンドンを歩いたのだ。そして、そこで「故郷」ではないものの永遠に触れ、そこから抒情がはじまるのを体験したのだ。「故郷」と「都会」に引き裂かれながら、「都会」の方へ歩みはじめたのだ。
そうした瞬間の哀しみが、この詩にはある。この詩集にはある。
「故郷」と「都会」は「族「シャーロック・ホームズという名のお店」」ではとても複雑だ。「都会」が「故郷」になるのか、「故郷」が「都会」になるのか、よくわからない。
昨日の朝から降った雨のためだろうか
テムズ川を流れる水は非詩的に濁っていた
トラファルガー広場の車の雑踏から
テムズ河岸へむかうそれほど広くない道路の途中に
「パブ シャロック・ホームズ」の灯りがみえた
七年前 F先生とテムズ河を散策しながら訪れたときは
休館だったのでF先生はチェッと指を鳴らして
暗い入り口にたたずんだままおたがいをなぐさめた
「テムズ川を流れる水は非詩的に濁っていた」。これが「非詩的」がなかったなら、つまり「テムズ川を流れる水は濁っていた」なら「故郷」そのものだ。あるいは「非詩的」のかわりに「ぬくぬくと」とか「犬の息のように」でも「故郷」そのものだ。しかし、そうした「永遠」の時間が「非詩的」と置き換えられた瞬間、「故郷」であるべき水の風景が、自然が、突然「都会」になってしまう。「故郷」の水は「非詩的」に濁ったりはしないものだ。ここでは水は「故郷」の「永遠」を拒絶する、あるいは否定するという形で、「都会」そのものの「永遠」というものを浮かび上がらせる。「故郷」ではない、もうひとつの「永遠」。ここに「都会」の抒情がある。「都会」自身の抒情がある。
「F先生はチェッと指を鳴らして」も同じである。「落胆」は「故郷」にもある。「故郷」の人間も「落胆」はする。しかし、「チェッと指を鳴らし」たりはしない。そんな肉体表現を知らない。知らないがゆえに、岡本はその様子が印象に残り、それをそのまま書くしかなかったのだろう。「故郷」の背負ったままの岡本は、ああ、こんな落胆の仕方、こんな怒りの表現があるのだと、驚くだけである。そして、そこから「都会」の抒情は始まり、勝本はそうした「都会」の抒情をすくいとるように書き綴ることになる。
霧雨のなかに詩を歌われた聖メアリー教会から
キング・ウィリアムズ通りをほんとうに歩いてやってきたんだ
エリオットだって河岸べりの青果市場跡にたたずんで
ロンドンブリッジを眺めれば
寒さのなかでコートの襟を立てて歩き出したろうさ
「青果市場」と「ロンドンブリッジ」の対比、そして「寒さのなかでコートの襟を立てて歩き出した」という行動--そこに「都会」の抒情がある。「青果市場」という永遠、「ロンドンブリッジ」という永遠に拒絶され、人間は(エリオットでさえ)、寒いときは襟を立てて歩くという「自然」の永遠。
スノッブという批判があるかもしれない。
特に次の2行。
地下鉄バンク駅まで歩いて戻った
テムズ川の匂いがポケットからほんのりとこぼれ落ちた
この「ほんのり」という「故郷」の出し方が鼻持ちならないという感じを持つ人もいるかもしれない。(逆に、とてもいい、この行こそ最高だと思う人もいるかもしれない。)それにつづく数行(ここでは引用しない)はとりわけスノッブな感じが強いかもしれない。
けれども私は、ここに出てくる「都会」をスノッブとは呼びたくない。
キング・ウィリアムズ通りをほんとうに歩いてやってきたんだ
先に引用した部分にあるこの1行、特にその「ほんとうに」に私は「故郷」そのものを感じる。岡本は、こういう一見スノッブに見える詩を書きながらも、ずーっと「故郷」を大事に肉体のなかにかかえている。この「故郷」が「ほんのり」としっかりと結びついている。
ほんとうに岡本はロンドンへ行ったのだ。彼の肉体はロンドンを歩いたのだ。そして、そこで「故郷」ではないものの永遠に触れ、そこから抒情がはじまるのを体験したのだ。「故郷」と「都会」に引き裂かれながら、「都会」の方へ歩みはじめたのだ。
そうした瞬間の哀しみが、この詩にはある。この詩集にはある。