詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康「記憶の書き出し 焼け跡っ子」

2007-10-20 22:14:43 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴木志郎康「記憶の書き出し 焼け跡っ子」(「KO.KO.DAYS」2 、2007年09月10日発行)
 連作なのだが、最後の「スズメ掴み」が非常におもしろい。

焼け跡に低い灌木の茂みがあって
雀がねぐらにしていた。
暮れるころ、騒がしく鳴いて
枝の寝場所を決めていた。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅるじゅる、ちゅるじゅる
身を伏せて近づくこども。
わたし。

 他の連作の部分にも

手製の車に載せて引いて売りに行く十一歳のこども。
わたし。

 というスタイルの行が必ず出てくる。
 「……こども。」と「わたし。」の改行による接続には「それが」ということばが隠されている。指示代名詞が省略されている。指示代名詞による限定が隠されている。
 「わたし」を「……こども」に限定し、いわば対象としてみつめている。
 鈴木は、この詩では、「こども」だった時代の「わたし」をイメージというか、目の前に映し出された映像のように眺めている。
 
 ところが途中でこのスタイルが崩れる。「それが、わたし」といいたいのだが、そんなふうにことばが動いてゆかない部分が出てくる。

素手で、
寝ている雀の一羽を掴んだ。
柔らかくて暖かい感触は
一瞬の衝撃。
他の雀は一斉に飛び去った。
こどもはつられて、
掴んだ雀を逃がした。
わたしの手は
柔らかく暖かい
生きものを掴んだのだった。

 記憶が肉体を通してつながってしまう。「わたし」は記憶のスクリーン映し出される映像ではなく、「手」なのである。「手」が「わたし」なのである。
 鈴木のいまの手は、スズメをつかんだ手ではないが、その手はずーっと鈴木の体から離れたことはなく、「こども」のときから、いまもつながっている。「わたし」の肉体は「こども」の肉体そのものではないが、「こども」であった時代の肉体と分離して考えることができない。「それが」と対象化しようにも、切り離せない。対象化しようとしても対象化しきれない。
 そして、その切り離せない肉体、手は、また「柔らかく暖かい/生きもの」とつながっている。手は、鈴木の手であり、同時に「柔らかく暖かい/生きもの」であり、その「柔らかく暖かい/生きもの」は手と同じように対象化できない。鈴木自身なのである。
 「柔らかく暖かい/生きもの」をつかむことで、鈴木は同時に「人間」(こども)でありながら、「柔らかく暖かい/生きもの」になってしまったのだ。「人間」なのに、スズメになってしまったのだ。
 この「狂い」はきわめて人間的である。「狂い」のなかに、人間性がある。
 そして、一度狂った(?)文体は、最後まで影響する。

あと十年あと十年と思いつつわたしの脳味噌は灰になる。

 「脳味噌」はやはり「わたし」である。対象化できない。「わたし」を対象化しようとして、対象化しきれず、肉体の連続性へ帰ってきてしまう。そこに鈴木の変わらなさ、いつでも鈴木は「わたし」「わたし」「わたし」なのだ、と思い、安心(?)する。

 笑ってはいけないことなのかもしれないが、私は笑わずにはいられない。「わたしの脳味噌」とわざわざかくような人間が何人いるだろうか。「わたしの肉」「わたしの骨」ではなく「わたしの脳味噌」。
 ここには、「ことば」(思いを伝えることば)も肉体と地続きにする思想がある。手が「柔らかく暖かい/生きもの」をつかんだように、ことばは「柔らかく暖かい/生きもの」をつかむことで、「わたしの脳味噌」になる。
 その視点に立てば、「(それが)わたし。」という文も、対象化しようとする意図とは逆に、「わたしの脳味噌」を「こども」に結びつけるための方法のように思えてくる。
 そこから見えてくるのも、やはり「わたし」「わたし」「わたし」の自己拡張である。これは楽しいねえ。笑わずにはいられない。愉快だなあ。

コメント
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