詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

駱英『都市流浪集』

2007-10-05 11:22:37 | 詩集
  駱英都市流浪集』(竹内新・編訳)(思潮社、2007年08月20日発行)
 駱英の「都市」のいちばんの不思議さは他人が出てこないことである。他人の変わりに誰が出てくる。「複数の私」である。「都市流浪の歌」の「24」。

ホールに坐ってガラス越しに見渡せば
砕け散った私の影が通りの車と重なり合っている
眼は切断されて五つの花びらになる
あるものは街角に
あるものは胸先に
どれが私なのだろう
(略)
都市は私を流浪させ
愛人のように窓の前で徘徊させる
都市は私にひどい仕打ちをし
浮気性の女のように阿片に浸らせる
都市は私を骨抜きにし
同志のように何度も汗を流させる
誰が私なのだろう

 「どれが私なのだろう」「誰が私なのだろう」。見渡せば「私」だらけなのである。そしてそのすべての「私」が「私」ではないのである。
 「故郷」でも、たぶんほんとうは同じなのである。人間の性質はかわらないから、「故郷」にあっても駱英はすべての存在に「私」を見るだろう。一本の草に、一枚の花びらに、一匹の蝶に。そしてそのとき「どれが私なのだろう」とは悩まない。「一本の草が私だ」「一枚の花びらが私だ」「一匹の蝶が私だ」と書いても、駱英は「故郷」ではそれを矛盾だとは感じない。当然だと感じる。「私」はすべての存在とともにある。「私」はすべての存在といのちを共有している。そういう「いのちの共有」という「野蛮」が駱英の「故郷」である。そこに「郷愁」を駱英は感じている。
 その対極が「都会」だ。あらゆる瞬間に、駱英の姿を映すガラスにさえ「私」は存在するが、そこにはいのちの共有がない。あらゆる人と出会うがどのような人ともいのちの共有がない。
 「誰が私なのだろう」とは、「誰」とならいのちを共有を感じることができるだろうかという意味だろう。

 ここから浮かび上がるのは「孤独」だ。「孤立」だ。「野蛮」を思うとき、私はほんとうはそれを「孤高」と呼びたい。たったひとりで巨大なビルと向き合う駱英。たったひとりで高速道路と向き合う駱英。そのとき駱英は高層ビルに匹敵する「野蛮」を探している。高速道路に向き合い、高速道路に匹敵する「野蛮」を探している。--そして、そんなものはないのだと気がつく。少なくとも、「都市」にはそれがない。それがないとわかっていても、都市にいるので、それを探して「流浪」するしかない。「流浪」するときのエネルギー。それだけが唯一「都市」に向き合う「野蛮」なのだ。
 「都市」の側から見ればわかるはずだ。「都市」は「流浪」を受け入れるふりをしているが、実は拒絶している。流浪する「場」を提供するだけで、「流浪」にあわせて、「都市」そのものが流浪するということはけっしてしない。

 「11」の部分に、駱英の「野蛮」の美しい姿がある。

心はとうに自分のためにさめざめと泣いている
独りぼっちで都市に抗う自分のことが泣けてくる

 涙が美しいのは「野蛮」のこころがあるときだけである。野生の涙だけが美しい。それは私たちが失った涙だからである。「いのちを共有する故郷」から切り離された涙だからである。
 私が「野蛮」「孤高」と書いたものを、駱英は「狼」に置き換えている。「11」の後半は次のように書かれている。

強く恨みたい 一切を強く恨んで
嫌悪するところの生存を嫌悪するのだ
孤独な狼が柵のなかを駆けるように
この都市の暖かい香りに私はもう落ち着いてはいられない

コメント
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