新川和江「Lethe--忘れ川」(「現代詩手帖」2007年10月号)
生きるということはどういうことか--と書いてしまうと、何だか「哲学」のようになってしまうが、しかし詩は(あるいは文学を初めあらゆる芸術は)結局は哲学なのだと思う。「Lethe--忘れ川」で新川は「思い出す」ということについて書いている。思い出というよりも「思い出す」ということについて書いている。
「思い出す」とき、人は何かを手がかりにする。その存在がないと「思い出せない」。新川の場合は「黒牛」である。「黒牛」は現在と過去とを一点に凝縮する。いわば「永遠」なのである。そこには「時間」があって、同時に「時間」がない。だからこそ、次のような行が可能なのである。
新川が「黒牛」を探す場所は、実は「ふるさとの川」、そして「あのとき川岸」ではない。違った場所、現在、たとえば東京で「黒牛」を探すのだ。川を流れる新川をじーっと見つめていたように、今、ここにいきている新川をじーっと見つめているはずなのである。新川は、東京の、川のない場所で暮らしているかもしれないが、川がなくても、川を流れて生きる時間というものがあり、そうした時間があるからこそ、その時間と重なり合う形で存在した過去が蘇るのである。そして、そうした時間があるかぎり「黒牛」は存在するのである。それを探している。「百年」ということばが象徴的だが、その時間は新川の存在を超越する時間である。
今では百歳まで生きる人も多いから「千年」くらいのことばをつかわないと実情を反映しないかもしれないが、ここに書かれている「百年」は具体的な百年ではなく、長い長い時間、人間を超越した時間の「比喩」である。
そしてこのことは、逆に言えば、もし新川が「黒牛」を探し出すことができたら、新川は「永遠(人間の時間を超越した時間)」に触れることができる。
新川の詩は「 1行あき」(連の転換)のあと、少しことばの調子も変わって、とても美しいことばを誕生させる。
「ていねいにお願いして返して貰い」。この行が美しい。絶品である。
「思い出」の「黒牛」は新川の「思い出」であっても、新川のものではないのだ。新川を超越する存在が新川にみせてくれた「永遠」なのである。それは「ていねいにお願いして返して貰」うことしかできない。
「探す」というのは「ていねいにお願いして返して貰」うことなのである。自分自身ではどうすることもできないものなのである。それはあきらめというより、むしろ信頼である。「ていねいにお願い」すれば、それは返して貰えるものなのだ。
「ていねいにお願い」することが、新川の哲学なのである。生きるということは、「ていねいにお願い」することなのだ。
でも、どんなふうに?
新川は、具体的な「ていねいなお願い」の仕方を書いている。実践している。
新川の周囲にいる人々の暮らしを「ていねい」に見つめる。耳を澄まして、そのことばを「ていねい」に聞く。「ていねい」を繰り返すことで、人々の時間と自分の時間をゆっくりと一つのものにする。そのとき「永遠」に触れるのだ。そのとき「百年」かわらない時間がそこに姿をあらわすのだ。そうすれば「黒牛」は、そのかたわらにあらわれるのである。
「畑を耕す」の連を読むと、そこに「黒牛」の姿は書いてないけれど、「黒牛」がじーっと農夫を見つめている姿が見えるでしょ? 「黒牛」をその瞬間新川は探し当てている。探し当てているから、わざわざ「見つかった」と書く必要もなくなった。ああ、あそこにいる、そう自分自身に言い聞かせて、川を流れてゆくだけである。
生きるということはどういうことか--と書いてしまうと、何だか「哲学」のようになってしまうが、しかし詩は(あるいは文学を初めあらゆる芸術は)結局は哲学なのだと思う。「Lethe--忘れ川」で新川は「思い出す」ということについて書いている。思い出というよりも「思い出す」ということについて書いている。
あの黒牛を探さねばならない
聖者のように痩せて
ふるさとの川岸に佇んでいた黒牛
仰向けに流されてゆく幼いわたしを
じっと見ていた あの黒牛
「思い出す」とき、人は何かを手がかりにする。その存在がないと「思い出せない」。新川の場合は「黒牛」である。「黒牛」は現在と過去とを一点に凝縮する。いわば「永遠」なのである。そこには「時間」があって、同時に「時間」がない。だからこそ、次のような行が可能なのである。
胃の中の草を反芻するでもなく
百年も前からそうしていたように
立っていた黒牛は
百年ののちもどこかの川岸に
佇んでいるはずであった
新川が「黒牛」を探す場所は、実は「ふるさとの川」、そして「あのとき川岸」ではない。違った場所、現在、たとえば東京で「黒牛」を探すのだ。川を流れる新川をじーっと見つめていたように、今、ここにいきている新川をじーっと見つめているはずなのである。新川は、東京の、川のない場所で暮らしているかもしれないが、川がなくても、川を流れて生きる時間というものがあり、そうした時間があるからこそ、その時間と重なり合う形で存在した過去が蘇るのである。そして、そうした時間があるかぎり「黒牛」は存在するのである。それを探している。「百年」ということばが象徴的だが、その時間は新川の存在を超越する時間である。
今では百歳まで生きる人も多いから「千年」くらいのことばをつかわないと実情を反映しないかもしれないが、ここに書かれている「百年」は具体的な百年ではなく、長い長い時間、人間を超越した時間の「比喩」である。
そしてこのことは、逆に言えば、もし新川が「黒牛」を探し出すことができたら、新川は「永遠(人間の時間を超越した時間)」に触れることができる。
新川の詩は「 1行あき」(連の転換)のあと、少しことばの調子も変わって、とても美しいことばを誕生させる。
網膜にインプットされたその映像を
ていねいにお願いして返して貰い
現在(いま)のわたしに重ね
旅支度をそろそろ調えようと思うのだ
「ていねいにお願いして返して貰い」。この行が美しい。絶品である。
「思い出」の「黒牛」は新川の「思い出」であっても、新川のものではないのだ。新川を超越する存在が新川にみせてくれた「永遠」なのである。それは「ていねいにお願いして返して貰」うことしかできない。
「探す」というのは「ていねいにお願いして返して貰」うことなのである。自分自身ではどうすることもできないものなのである。それはあきらめというより、むしろ信頼である。「ていねいにお願い」すれば、それは返して貰えるものなのだ。
「ていねいにお願い」することが、新川の哲学なのである。生きるということは、「ていねいにお願い」することなのだ。
でも、どんなふうに?
新川は、具体的な「ていねいなお願い」の仕方を書いている。実践している。
畑を耕す農夫が 手を休め腰を伸ばし
--今日もはあ ええ天気じゃったのう
空を見上げてとなりの畑の農夫に言う
わたしは微笑って金魚模様のたもとを振る
--なんか今 赤いもんが
チラッと光ったんじゃないかい?
--夕焼けじゃろ
などと言い合い どちらもすぐに忘れてしまう
もうひと働き と鍬を持ち直す
新川の周囲にいる人々の暮らしを「ていねい」に見つめる。耳を澄まして、そのことばを「ていねい」に聞く。「ていねい」を繰り返すことで、人々の時間と自分の時間をゆっくりと一つのものにする。そのとき「永遠」に触れるのだ。そのとき「百年」かわらない時間がそこに姿をあらわすのだ。そうすれば「黒牛」は、そのかたわらにあらわれるのである。
「畑を耕す」の連を読むと、そこに「黒牛」の姿は書いてないけれど、「黒牛」がじーっと農夫を見つめている姿が見えるでしょ? 「黒牛」をその瞬間新川は探し当てている。探し当てているから、わざわざ「見つかった」と書く必要もなくなった。ああ、あそこにいる、そう自分自身に言い聞かせて、川を流れてゆくだけである。