詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「幻帖」

2007-10-14 23:36:35 | 詩集

 岩佐なを「幻帖」(「生き事」3、2007年夏発行)

 「幻帖」を手に入れた。それを口語訳し、絵もつけてみたいというような前書き(?)があって

「序」と思ってほしい部分
〈どこまでが「序」なのかは不明〉

 という2行がある。「前書き」と「序」もそうだが、これっていったい何? 何でもない。「何」という枠、「何」という区別がない。岩佐は区別をつけようとしていない。こにこの作品の(あるいは最近の岩佐の特徴がある。
 あらゆるものの「区別」をなくしていくこと。
 では、区別をなくしたところから、何がはじまるか。

なんまいもなんまいもなんまいだ鳥女神の

 たとえばこの行は「何枚も何枚も何枚だ」とも「何枚も何枚も南無阿弥陀(なんまいだ)」とも取れる。たぶん「何枚も何枚も南無阿弥陀(なんまいだ)」と読む人の方が多いだろう。そして、そういうふうに読み取った瞬間、意識が楽々と何かを越境してしまっている、区別すべきものを区別しないで生きていることに気がつく。
 そういう「あやふや」なものを岩佐は書こうとしている。

記憶のようでもあるのです。
想像のようでもあるのです。
いや、はっきり知覚したような。
「はっきりなのに、ような、なんですか」
はっきりとようななんです。
「ばかですね」
すみません。

 「はっきりとようななんです」としか言えないことがあるのだ。それは、ことばの問題なのか、意識の問題なのか、よくわからないが、そのよくわからないところにこそ、何かが生きている--ということを、岩佐ははっきりと感じている「ような」のである。そして、この「ような」こそ岩佐の「思想」である。
 岩佐は銅版画(といっていいのかな?)もつくっており、その1枚が岩佐の作品の表紙に掲げられているが、そこには女の顔、鳥「のような」ものが描かれている。女の顔、鳥ははっきりと見えるが、「ような」ものである。というのも、その全体が明確ではないからだ。その二つの存在が触れ合っていて、つながっているからである。無表情な女と鳥がセックスをしているようにもみえるが、そういうことは現実にはありえず、しかも夢でならありえるというところで、つながっているからである。そういう「ような」ことが、私たちの意識の領域にはあり、そういう部分へ、そういう部分へと、岩佐はおりてゆこうとしているからである。明確にすればするほど「ような」という世界へ入ってゆくのが、岩佐の世界なのである。

 「ばかですね」というかわりに、私は、いままで「気持ち悪いですね」と岩佐に言い続けてきたが、それに対する岩佐の答えは「すみません」の類である。
 岩佐にとっては、そう答えるしかない。それが岩佐の世界だからである。
 そして、こういう世界は、そういうふうに接するしかないのだとも私は思う。詩のなかの誰かは「ばかですね」といい、それに対して岩佐は「すみません」という。これは批判と謝罪のように見えるが、ほんとうはそうではない。相いれないもの同士の、容認の形である。
 一方は「ばかですね」と区切りをつけることで、一方の「区切りのなさ」にけりをつける。他方は「すみません」と謝るふりをして「区切りのなさ」へ帰ってゆく。この関係は何かことがあるたびに繰り返される。「あいかわらず、ばかですね」「すみません」。これは批判、謝罪ではなく、「あいさつ」なのである。「あいさつ」をするというのは、相手を認めるということなのである。

 いろいろおもしろい部分はあるが、ひとつひとつ書いても繰り返しになる。繰り返しになっても、私は岩佐の作品が「気持ち悪くて、嫌い」だから、できるかぎりそう書くのだが……。今回は、繰り返しを省略して、最後に岩佐の詩の「区切りなさ」(区別の欠如)につながる部分を指摘しておく。
 この詩は「*つづく・・・」で終わっている。終わっていないのだ。25ページも読んだのに、まだ「区切りなく」この作品はつづいてゆく。「*つづく・・・」はこの作品を象徴することばである。私は、あきれかえって、笑ってしまった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする