監督 ジャ・ジャンクー 出演 シェン・ホン、ハン・サンミン、ワン・トンミン
これは10年に1作の大傑作である。
最初から最後まで映像がとてつもなく美しい。その美しさは、ほろびない美しさである。破壊される街を描き、瓦礫を描き、埃を描いているのに、そこから浮かびあがってくるのは不滅の美である。破壊される街の、埃が空気のなかに漂っていて、息苦しいくらいなのに、とてつもなく美しいのである。
もっとも好きなシーンは、16年ぶりに会った男と女(夫婦)が壊れたビルのなかで飴を食べるシーンだ。壊れたビルの壁の向こうに、遠くに、取り壊し中のビルがある。そのビルがゆっくりゆっくり崩れ落ちる。重たい音。音に気がついて男と女が立ち上がり、身を寄せて、その崩れていくビルを見つめている。遠い遠いビルなのに、そこで巻きあがる埃が、男と女のいるビルにまで漂ってくる感じがする。実際、壊し続ける街の生み出す埃が、二人のいる壊れたビルのいたるところにあふれているのだが……。
埃は、たぶん死んで行くもの、破壊されるものさえ、死んでしまったあと、破壊されたあとでさえ、それらは生きているという証拠かもしれない。その生き方は、普通の生き方とは違う。生きて、何かを動かすという生き方ではない。ただ、永遠に過ぎ去っていく時間を降り積もらさせる(降り積もる時間を受け止める)という生き方だ。
ふいに、すべてがいとおしくなるのである。
瓦礫が、取り壊しを告げる白いペンキの色、そしてその文字さえもが、いとおしくなるのである。そこに、どうすることもできず、ただ存在する時間がいとおしくなるのである。こんなところにも時間があったのだという驚きと、その時間というもの、それがいとおしくなるのである。
二組の男女(夫婦)の姿が描かれるが、その二人の関係は、破壊される街のように、すでに破綻している。それでも、それが美しい。ハッピーエンドではないのに、美しい。女が、男と別れるために、「好きなひとがいる」と告げる嘘さえもが美しい。嘘をつくことで守ろうとする愛が美しい。劇的ではない。むしろ、くたびれた愛であるが、そのくたびれ具合が美しいのだ。
あらゆるものが、くたびれることができる。そのことを静かに静かに教えてくれる。
くたびれるというのは、何かをしようとするねばり強い意思、生きる強い意思があってこそのことなのだ、ということが、ずん、ずん、ずんと、それこそ破壊された街にただようほこりのように降り積もってくる。
この映画のもうひとつの主役、長江。その水の色もまた、どこかくたびれている。ダムとなってせき止められて入いるからかもしれない。水もまた、くたびれている。くたびれた水の重さが、積み重ねられて苦しむ水の溜息が、重たい水蒸気となって吐き出され、あらゆるものがくたびれて行く。しかし、それが美しい。
くたびれることができる、ということが一種の美しさなのである。くたびれることのなかに、永遠の生活がある。暮らしがある。生きて、金を稼いで、食べて、愛して、憎んで、泣いて、笑って、という時間の積み重ね。その日々は、永遠なのである。嘘も、頑固さもくたびれながら永遠につづいて行く。
本当に美しい。この映画を見なかったら、10年間映画を見なかったのに等しい。大傑作としかいいようなのない傑作である。
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私はこの映画を福岡のシネテリエ天神で見た。この映画館は、この映画を見るのに適していない。スクリーンが汚れている。音も悪い。東京では銀座シャンテで上映されたようだが、これは東京まで行って見るべき映画だった。(11月 2日までなので、東京のひとは、ぜひ駆けつけてください。)シネテリエ天神のスクリーンは悲惨な状態だが、そういう悲惨なスクリーンでも、それを超えて、あふれてくる美しさがある。