サム・フランシスの恁麼竹田 朔歩書肆山田、2007年09月30日発行このアイテムの詳細を見る |
「門のない門」という作品が印象的だ。
夢の中
わたしは
遠い記憶の 雲の切れ間に
腰を掛けていて
いつの間にか
仁王門のところまで来ていた
劉 という少年と
息きって 走ってきた
その門を 潜ろう としたのか
その門には
門があり と思いこみ
はたして その門には 門がなかった
1連目と2連目をわける1行あき。この「あき」の大きさは、1連目、2連目がそれぞれさっとすばやく読める文体で書かれているので見逃してしまいそうだが、とんでもなく広くて深い「あき」である。「腰掛けていて」「いつの間にか」「走ってきた」。こういう動きは、書き出しの「夢の中」が的確にあらわしているが、夢の中ではありえても現実にはありえない。「いつの間にか」と簡単に言ってしまっている「間」は、夢の中では「いつの間にか」だが現実には「いつの間にか」ではありえない。その「間」のなかに起きたことは、とてつもなく大きい。しかし、実は、その大きさを的確にあらわすことばというのはなかなか見つからない。説明がしにくい。それはたぶん、現実すぎる問題なのだ。書くということは、たとえ現実を書くにしろ、現実のなかの一部分であり、現実のずるずるとつながった世界はどこかで切って捨ててしまわない書き表しようがない。書かずに捨ててしまった部分は、詩人のなかで、形を変えながらたまりつづけていくだけである。そして、それがある瞬間、「あき」そのものとして、詩人に復讐してくることがある。
3連目の「あき」には、そういうものが噴出している。「仁王門」を潜ろうとして走ってきたが、そこには門がなかった。門があると思い込んでいたが、そこには門がなかった。散文形式で書いてしまえば、そのときの「こころのあき」(つまりは、「ことばのあき」)が消えてしまうが、詩ではそれをそのまま「あき」として書くことができるので、竹田は「あき」をいくつも書き込んでいるのだが、その「あき」には、ことばにしてこなかった現実がびっしりとつまっていて、竹田に復讐しているのである。
「ことばにしろ」と。
だが、ことばにはけっしてならないものが、「あき」なのである。復讐してくるものに対しては、「あき」で立ち向かうしかない。禅問答のようではあるが、現実の「呼吸」というものは、そういうものではある。この「呼吸」は、現実に人と対面しているときはそれなりに説得力を持つ。しかし、活字ではなかなかむずかしい。むずかしいけれど、それしかない、という感じで竹田は書いている。
その七転八倒というとおおげさかもしれないが、苦しみの脂汗のようなものが、「あき」にあらわれていて、おもしろいと思う。
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この詩集にはいくつものタイプの詩がある。後半に収められた詩は「サム・フランシス」もそうだが、ある芸術家を念頭において書かれている。そこでは「あき」を現実の作品が埋めに来る、という変だけれど、向こう側にしっかりした「芸術作品」があり、その作品と竹田との「あいだ」にある「あき」を埋めるのを半分手伝ってくれる。そのために非常に読みやすい。どんなに「あき」があっても、向こう側が見える。
「門のない門」ではそういうことがない。「門」はない。向こう側がない。向こう側がないのは、竹田の内部(精神の奥)にこそ向こう側があるからである。向き合うのは、「固有名詞」として存在する「門」ではなく、精神の内部の「門」だからである。そこで問われているのは現実のありようではなく、竹田自身が現実とどう向き合い、精神の内部で現実そのものをどう再生し、現実と一体になるか、ということである。(あ、これも禅問答みたいだね。)
芸術作品を前に置き、それに対して感想を書くことは、ある意味で半分精神の内部と向き合う作業を中断している。どんなにあれこれ考えてみても、作品の半分は芸術家がつくってしまっており、竹田が何をいおうとサム・フランシスが作品をつくりかえるわけではない。そういう部分があるために、すーっと読むことができる。私が(あるいは他の読者が)竹田の視点に同意するにしろ、同意しないにしろ、そのときもサム・フランシスはサム・フランシスのままである。現実は、そういう具合にはいかない。同意するにしろ、同意しないにしろ、私は(読者は)それぞれの現実と向き合わなければならない。そして向き合うたびに姿を変えるのが現実というものである。
「サム・フランシス」などの作品が「門のない門」に比べると読みやすいけれど、ちょっと物足りなく感じるのは、せっかく「門のない門」で向き合った「あき」が、ここでは半分簡単に埋まっていると感じるからかもしれない。
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もうひとつ、竹田の作品でこころをひかれるものがある。肉体をていねいにみつめた描写である。たとえば
土踏まずの白さにのこる土のにおい (「震える耳」)
というような1行。そこにも「あき」がひそかに隠れている。土踏まずは土と接しない。そのときの「空間」が「あき」そのものであり、その「あき」ゆえに土の汚れから解放されている。しかし、その「あき」がそれでは土から完全に断絶したものかというとそうではなく「におい」を身につけている。
「あき」のなかで触覚(土に触れる)と嗅覚(におい)が絡み合い、存在している。
この描写が美しいのは、そしてこの別々の感覚(触覚、嗅覚)が、そういう「あき」のなかでこそ融合することをしっかり描いているからである。「あき」がなかなかことばにならないのは、「あき」のなかで融合しているもの、たとえば触覚と嗅覚を分離して同時に共存させる形で表現することがむずかしいからである。
「空の上 一本の太い幹」の次の3行もとても美しい。
土塊まじりの 多年草は
低く くぼんで
ざわざわ 風がぬぎ捨てていったものを 見つめる
「低く くぼんで」がすばらしい。
「サム・フランシス」のような完成した「芸術」ではなく、現実の空き地に見た草の動き、裸足であるいたときの肉体の感覚--そういうものの「あき」を、もっともっと書いてもらえたら、「門のない門」の世界がより充実して感じられるのになあ、と思った。