詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『鉱石譜』(2)

2008-07-23 15:10:30 | 詩集
 「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」

 これは「大陸を疾駆する嵐--canelian 紅玉髄」の書き出しである。括弧付きのことば。高柳自身のことばではない。つまり多くの普通の詩に出てくるような「私」の発言ではない。誰かの発言。作品のなかの「主人公」のことばである。
 高柳は、「私」を語っていない。単に「私」が登場しないというだけではなく、作品のなかの「主人公」と高柳は重なり合わない。「主人公」の生き方(?)に高柳の思いが託されている、虚構をとおして高柳が自己の考えを表現しているのではない。自己を語ることを放棄している。
 では、何を語るのか。
 「ことば」そのものを語る。「ことば」そのものが、どんなふうにして他のことばと共存し、そうすることでどんな劇を生み出すことができるか、を語る。高柳にとって、テーマは「私」ではなく、「ことば」なのである。
 高柳以外の詩人もまた「ことば」を語るが、そのときの「ことば」は高柳のことばとはずいぶん違う。「ことば」の動き方が違う。たとえば三井葉子のことばは、三井の肉体を通ることでことばの「たが」が外れる。それまでの「文学」のことばとは違った動きをする。ところが高柳のことばはあくまで「たが」の中なのである。「文学」のなかのことばなのである。「文学」のまま、あたらしい「文学」へと変質していく。そういう可能性を高柳は語るのである。

「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」
大陸から押し寄せる嵐が島のすべてを蹂躙(じゅうりん)する
花崗岩の荒地に群れるヤギの背を吹き分けて
山腹に自生するコルクガシの葉裏に吸収され
ようやく跳梁を収める風の 最後のむせび泣き
頬に残るその感触も遠い日々のうちに霞んだままだ

 この6行は、「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」が、他のどんなことばを呼び寄せることができるかを試している。「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」という行自体が、もしかすると何かからの引用かもしれないが、他のことばもまた一種の「引用」である。高柳が見た風景、実際に感じた風が書かれているわけではなく、すでに誰かによって書かれたことばである。「誰かによって」と書いたが、もっと正確にいえば「文学として成立してしまった」ことばである。
 ことばは個人によってつくりだされるものではない。ことばはすでに書かれてしまっている。書かれなかったことばは存在しない。あらゆる「文学」のことばは、すでに誰かによって語られたことば、書かれたことばである。新しいのは「ことば」そのものではなく、ことばの組み合わせ方なのである。
 この「ことばの組み合わせ方」も、実は、すでに存在している。ときどき、そこに手術台とこうもり傘の出会いがあるが、その出会いさえも、もうすでに存在している。
 何が残されているか。何も残されていない。残されているのは「文学」という蓄積だけである。

 高柳はことばを語る--と書いたが、より正確には、高柳という人間のなかにある「文学」の「蓄積」を語る。「ことばの伝統・歴史」を語る。あらゆることばのなかから、ことばの血筋をさぐる。血統をさぐる。そして、いわば「家系図」のようなものをつくるのである。

「私はわが祖国が滅ぼされたときに生まれた」

 ということばは、どういうことばの血を引き継いでいるか。そして、それはどんなことばを生み出して行くことができるのか--その膨大な絵巻を試みる。そして、そこからはじまるのは「物語」ではなく、ことばの緊密な連絡のあり方そのものなのである。
 きのう活字活版のことを書いたが、活字活版の組版の特徴のひとつに、本文の文字の大きさが同じ、という性質がある。不揃いの大きさでは活版活字は組み上げることができない。
 高柳のおこなっている作業は、これに非常に似ている。あらゆることばはすでに書かれてしまっている。書かれていなことばは世界に存在しない。けれども、その書かれ方は様々である。そのさまざまな書かれ方の中から、高柳は、正確に、同じ「大きさ」の、そして同じ「高さ」(活字は、おおざっぱにいえば、文字の面積と、文字を支える土台--「高さ」を持っている)の「ことば」を収集する。そして、組み合わせる。高柳の、ことばへの愛は、驚くべき正確さで、その作業をやってのける。
 この正確な「愛」が、高柳にとっての「詩」である。

「私の宿命は永続的に戦い続けることに他ならない」
戦のさなかにも肌身離さず内隠しの中にあって
鼓動に感応し続けてきたこの紅玉髄のみが
私の体温のかすかな変化を逐一知っている

 高柳の書く多くのことばのなかにも、この「紅玉髄」に匹敵することばがあるかもしれない。そのことばは、あらゆる詩が書かれる瞬間に、高柳の鼓動に反応している。高柳の体温を初めとするかすかな変化を全部知っている。それを探し当てるのが、批評の仕事かもしれない。だが、私には、それが何であるかはわからない。私には批評が向いていない、ということだろう。

 「予感」のようなもの、として書いておけば、たぶん、この詩の最後の行が、高柳にとっての「紅玉髄」である。

「私は初めに知っていたこと以外は何一つ学ばなかった」

 人間は知っていることしか学べない。知らないことは学べない。知っていることをのみ学びつづけ、知っていることをのみ、少しずつひろげてゆく。高柳が知っていることとは、世界はことばでできている、ということだろう。そして、あらゆるものがことばにならないかぎり存在しないということだろう。
 高柳は知っていることばのみを収集する。そして知っている組み立て方ばかりで組み立てる。しかし、それはいつでも高柳の「夢」を裏切るように、「知らなかったもの」、つまりいままで存在していなかったもの--独立した詩になってしまう。詩が誕生してしまう。
 ことばには、何か、そういうものがある。すべて既存のはずなのに、その既存を踏み破っていく力を持っている。その力に誘われ、誘われるままに、ことばを正確に、美しく組み立てていく。--ことばに見入られてしまった詩人がいる。職人がいる。

 職人。いまは、すっかり少なくなってしまった。あらゆるものが職人の知恵(思想)を欠いたままあふれている。職人の技、匠の技に鍛えられぬまま、ことばがあふれている。そうしたことばへの、対極にある。高柳のことばと詩は。




星間の採譜術
高柳 誠
書肆山田

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする