詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「ワイルド・ラブズ(朝の唄)」

2008-07-18 13:09:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「ワイルド・ラブズ(朝の唄)」(「白黒目」12、2008年07月発行)
 豊原の詩はいつ読んでも不思議である。「ワイルド・ラブズ」という作品は「夕の唄」「朝の唄」「昼の唄」と三つあるが、その「朝の唄」。その書き出し。

ゆううつになりそうな
日のはじまりだ
湿っぽい枕を手に持って
冷茶をあおる
父はパンを焼いている
ふたり分の
昨夕は 家族四人分の
魚を焼いていた
今晩も魚だろう
何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている

 朝の父との食卓の風景を描いている。それだけかもしれない。それでも不思議に感じる。「パン」も「魚」も見慣れたものである。それなのに、なぜだろうか。一回かぎりのものに感じる。そして、矛盾しているが、一回かぎりだからこそ、永遠に同じだとも感じる。永遠に同じだからこそ、一回ずつのことが一回かぎりに感じられるのかもしれない。その一回を逃すと、永遠に「永遠」はやってこない。
 見なれていないものに目を向けると、そのことが鮮明になるかもしれない。

何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている

 食卓と2階にある自分の部屋(?)を結びつける「階段」。「階段」が結びつけるものは「常識的に」考えれば1階の食卓と2階の部屋である。しかし、豊原は「朝の希望」と「夕べのがっくり」を結びつけると書いている。しかも「共に」。
 それはたぶん父がふたり分のパンを焼いていることを見て、思い浮かんだことがらである。今夜食べるものについて考えたとき、思い浮かんだことがらである。
 非常に極限的なところから出発している考えである。
 そして、その極限的であるところ、一回かぎりであることが、逆に、こういう「結びつき」は豊原にとっては、「永遠」なのだということを浮かび上がらせる。一回気がついてしまうと、すべてがその一回のなかに含まれてしまう。もう、この階段は消えない。
 こうした結びつきは「俳句」に似ている。俳句の「一期一会」に似ている。階段は「存在感」を持って、いま、目の前に出現している。階段でないもの「朝の希望」「夕べのがっくり」が階段となって、そこに立ち現れている。



 同じ号に載っている俳句4句。

歩き疲れて鳥渡りけりわたりけり

冷房車幼いひとのころこんこ

朝曇青を見つめて肩車

淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立

 「歩き疲れて」が好きだ。2度の「けり」は反則(?)なのだろうけれど、歩き疲れて放心したこころが繰り返しのなかで休んでいる。切れ字はおもしろいなあ、と思った。






夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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