豊原清明「ワイルド・ラブズ(朝の唄)」(「白黒目」12、2008年07月発行)
豊原の詩はいつ読んでも不思議である。「ワイルド・ラブズ」という作品は「夕の唄」「朝の唄」「昼の唄」と三つあるが、その「朝の唄」。その書き出し。
朝の父との食卓の風景を描いている。それだけかもしれない。それでも不思議に感じる。「パン」も「魚」も見慣れたものである。それなのに、なぜだろうか。一回かぎりのものに感じる。そして、矛盾しているが、一回かぎりだからこそ、永遠に同じだとも感じる。永遠に同じだからこそ、一回ずつのことが一回かぎりに感じられるのかもしれない。その一回を逃すと、永遠に「永遠」はやってこない。
見なれていないものに目を向けると、そのことが鮮明になるかもしれない。
食卓と2階にある自分の部屋(?)を結びつける「階段」。「階段」が結びつけるものは「常識的に」考えれば1階の食卓と2階の部屋である。しかし、豊原は「朝の希望」と「夕べのがっくり」を結びつけると書いている。しかも「共に」。
それはたぶん父がふたり分のパンを焼いていることを見て、思い浮かんだことがらである。今夜食べるものについて考えたとき、思い浮かんだことがらである。
非常に極限的なところから出発している考えである。
そして、その極限的であるところ、一回かぎりであることが、逆に、こういう「結びつき」は豊原にとっては、「永遠」なのだということを浮かび上がらせる。一回気がついてしまうと、すべてがその一回のなかに含まれてしまう。もう、この階段は消えない。
こうした結びつきは「俳句」に似ている。俳句の「一期一会」に似ている。階段は「存在感」を持って、いま、目の前に出現している。階段でないもの「朝の希望」「夕べのがっくり」が階段となって、そこに立ち現れている。
*
同じ号に載っている俳句4句。
「歩き疲れて」が好きだ。2度の「けり」は反則(?)なのだろうけれど、歩き疲れて放心したこころが繰り返しのなかで休んでいる。切れ字はおもしろいなあ、と思った。
豊原の詩はいつ読んでも不思議である。「ワイルド・ラブズ」という作品は「夕の唄」「朝の唄」「昼の唄」と三つあるが、その「朝の唄」。その書き出し。
ゆううつになりそうな
日のはじまりだ
湿っぽい枕を手に持って
冷茶をあおる
父はパンを焼いている
ふたり分の
昨夕は 家族四人分の
魚を焼いていた
今晩も魚だろう
何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている
朝の父との食卓の風景を描いている。それだけかもしれない。それでも不思議に感じる。「パン」も「魚」も見慣れたものである。それなのに、なぜだろうか。一回かぎりのものに感じる。そして、矛盾しているが、一回かぎりだからこそ、永遠に同じだとも感じる。永遠に同じだからこそ、一回ずつのことが一回かぎりに感じられるのかもしれない。その一回を逃すと、永遠に「永遠」はやってこない。
見なれていないものに目を向けると、そのことが鮮明になるかもしれない。
何か朝の希望と
夕べのがっくりは
共に階段を結びつけている
食卓と2階にある自分の部屋(?)を結びつける「階段」。「階段」が結びつけるものは「常識的に」考えれば1階の食卓と2階の部屋である。しかし、豊原は「朝の希望」と「夕べのがっくり」を結びつけると書いている。しかも「共に」。
それはたぶん父がふたり分のパンを焼いていることを見て、思い浮かんだことがらである。今夜食べるものについて考えたとき、思い浮かんだことがらである。
非常に極限的なところから出発している考えである。
そして、その極限的であるところ、一回かぎりであることが、逆に、こういう「結びつき」は豊原にとっては、「永遠」なのだということを浮かび上がらせる。一回気がついてしまうと、すべてがその一回のなかに含まれてしまう。もう、この階段は消えない。
こうした結びつきは「俳句」に似ている。俳句の「一期一会」に似ている。階段は「存在感」を持って、いま、目の前に出現している。階段でないもの「朝の希望」「夕べのがっくり」が階段となって、そこに立ち現れている。
*
同じ号に載っている俳句4句。
歩き疲れて鳥渡りけりわたりけり
冷房車幼いひとのころこんこ
朝曇青を見つめて肩車
淡さもろさの起床のくしゃみ夏木立
「歩き疲れて」が好きだ。2度の「けり」は反則(?)なのだろうけれど、歩き疲れて放心したこころが繰り返しのなかで休んでいる。切れ字はおもしろいなあ、と思った。
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