高橋千尋「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」(「一個」2、2008年初夏発行)
絵本である。という、絵本形式であるというべきなのか。眠れぬ夜、頭の中は「うつ」がいっぱい。それを「鬱虫掘り」やってきて、掘っていく。「鬱虫」は佃煮にして食べる。そういう「物語」(?)がいちおう、ある。(と、私は読み取った。)
台所で佃煮をつくっている絵のそばには、次の文字。
虚構と現実が入り交じる。絵本だから、そこに書かれていることはもちろん虚構であり、「鬱虫のつくだ煮」なんてないのだろう。が、それをつくる手順、材料に「黒砂糖、しょうゆ、みりん」という具合に現実に存在する「もの」を配合することで、「鬱虫のつくだ煮」そのものを存在させてしまう。
この現実と虚構の「あんばい」がとてもいい。
それに先だつ2連、「里子」と「よよ子」の現実との関係の仕方も(現実との関係の描き方)も、「あんばい」がとてもいい。「親戚」とだけいって「おば」などといわないところに、虚構のうさんくささと透明さがいい感じでまじりあっている。繰り返される「らしい」「らしい」が、また絶妙だ。
あいまいなものと明確なものが混じり合うと、ひとはあいまいなものを疑うよりも、確かなものを信じてしまう。
「鬱虫のつくだ煮」。「鬱虫」は、何?と思うけれど、「つくだ煮」なら知っている。知っているものをしっかり抱き込んで意識は安心する。「つくだ煮」の作り方が書かれていれば、なおさら「つくだ煮」を信じてしまう。
「里子」も「よよ子」もだれなのか知らないけれど、「台所」と「親戚」なら知っている。「親戚」のひとがやってきて「台所」を手伝うのも、なつかしいら暮らしで、とても安心する。
「安心」をひきだす「あんばい」がとてもいいのだと思う。
そして、それを実際に食べる描写が出てくると、もう、「安心」は揺るがない。
とてもいい感じだ。「あんばい」がいい、としか私は言い方を知らないが、とても、いい。
配置される「絵」の感じもいい。
半分もんもの、はんぶんにせもの。そういう感じがいい。
そして「鬱虫」ということばもそうだけれど、その「嘘」(ありえないもの)にも「ほんもの」が潜んでいるという「あんばい」がなんともいえない。
読んでいるうちに、その「嘘」なのかに潜んでいる「ほんもの」(たとえば、「鬱」)が、じんわりときいてくる。「鬱虫のつくだ煮」で何杯でもご飯が食べられるように、こういう嘘なら何杯食べても嫌悪感がでてこない。逆に、なんともいえない安心感がうまれる。
この作品は、最後がまたまた大傑作なのだが、それはここでは省略する。私の文章では、もともと「絵本」の半分しか紹介できない。絵と文とのからみあいはぜひ「一個」そのもので読んでもらいたい。
*
それにしても。というか、さらに、というべきか。
タイトルの「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」の「らしい」も非常におもしろい。
先の引用を読み返してもらえればわかるが、作品のなか、本文には「らしい」はない。本文にはないけれど、タイトルには「らしい」を付け加えている。この絶妙な距離感--そこに、たぶんすべての「あんばい」の秘密があるのだと思う。
高橋のほかの作品をもっと読めば、「あんばい」のことがもう少しわかるかもしれないが、いまは、たぶんすべての「あんばい」の秘密がある--という予感があるだけである。
絵本である。という、絵本形式であるというべきなのか。眠れぬ夜、頭の中は「うつ」がいっぱい。それを「鬱虫掘り」やってきて、掘っていく。「鬱虫」は佃煮にして食べる。そういう「物語」(?)がいちおう、ある。(と、私は読み取った。)
台所で佃煮をつくっている絵のそばには、次の文字。
赤い台所には里子が住んでいて、
鬱虫の佃煮を煮詰めている。
里子はよよ子の親戚にあたるらしい。
それは確からしい。
鬱虫のつくだ煮は
黒砂糖、しょうゆ、みりん、
紹興酒、粉山椒、掘りたて鬱虫。
虚構と現実が入り交じる。絵本だから、そこに書かれていることはもちろん虚構であり、「鬱虫のつくだ煮」なんてないのだろう。が、それをつくる手順、材料に「黒砂糖、しょうゆ、みりん」という具合に現実に存在する「もの」を配合することで、「鬱虫のつくだ煮」そのものを存在させてしまう。
この現実と虚構の「あんばい」がとてもいい。
それに先だつ2連、「里子」と「よよ子」の現実との関係の仕方も(現実との関係の描き方)も、「あんばい」がとてもいい。「親戚」とだけいって「おば」などといわないところに、虚構のうさんくささと透明さがいい感じでまじりあっている。繰り返される「らしい」「らしい」が、また絶妙だ。
あいまいなものと明確なものが混じり合うと、ひとはあいまいなものを疑うよりも、確かなものを信じてしまう。
「鬱虫のつくだ煮」。「鬱虫」は、何?と思うけれど、「つくだ煮」なら知っている。知っているものをしっかり抱き込んで意識は安心する。「つくだ煮」の作り方が書かれていれば、なおさら「つくだ煮」を信じてしまう。
「里子」も「よよ子」もだれなのか知らないけれど、「台所」と「親戚」なら知っている。「親戚」のひとがやってきて「台所」を手伝うのも、なつかしいら暮らしで、とても安心する。
「安心」をひきだす「あんばい」がとてもいいのだと思う。
そして、それを実際に食べる描写が出てくると、もう、「安心」は揺るがない。
ぴり と 山椒のきいた ほろにがい鬱虫のつくだ煮。
「あぁ ご飯が進むこと。やっぱりご飯のおともは
つくだ煮ねぇ、玉木屋か鬱虫ねぇ。」
「そうねぇ何杯でも いけちゃうわ。」
「焦がさないで ていねいに煮詰めることが大事なの。」
とてもいい感じだ。「あんばい」がいい、としか私は言い方を知らないが、とても、いい。
配置される「絵」の感じもいい。
半分もんもの、はんぶんにせもの。そういう感じがいい。
そして「鬱虫」ということばもそうだけれど、その「嘘」(ありえないもの)にも「ほんもの」が潜んでいるという「あんばい」がなんともいえない。
読んでいるうちに、その「嘘」なのかに潜んでいる「ほんもの」(たとえば、「鬱」)が、じんわりときいてくる。「鬱虫のつくだ煮」で何杯でもご飯が食べられるように、こういう嘘なら何杯食べても嫌悪感がでてこない。逆に、なんともいえない安心感がうまれる。
この作品は、最後がまたまた大傑作なのだが、それはここでは省略する。私の文章では、もともと「絵本」の半分しか紹介できない。絵と文とのからみあいはぜひ「一個」そのもので読んでもらいたい。
*
それにしても。というか、さらに、というべきか。
タイトルの「焦がさないでていねいに煮詰めることが大事らしい」の「らしい」も非常におもしろい。
先の引用を読み返してもらえればわかるが、作品のなか、本文には「らしい」はない。本文にはないけれど、タイトルには「らしい」を付け加えている。この絶妙な距離感--そこに、たぶんすべての「あんばい」の秘密があるのだと思う。
高橋のほかの作品をもっと読めば、「あんばい」のことがもう少しわかるかもしれないが、いまは、たぶんすべての「あんばい」の秘密がある--という予感があるだけである。