井坂洋子「緑のエキス」(「一個」2、2008年初夏発行)
途中に一か所「誤植」が出てくる。「誤植」は、まあ、よくあることかもしれない。私が引用した作品にも無数の「誤植・誤記」があるだろうと思う。(申し訳ない。)
「誤植」は、普通は、気にならない。
ところが今回に限って、とても気になった。「緑のエキス」の3連目。
この詩には「”ふむ”」と「”へむ”」が登場する。そして、そのまわりにあれこれことばが飛び交う。具体的ではあるけれど、しかし、「”ふむ”」と「”へむ”」が何(だれ)なのかがさっぱりわからないので、いくら読んでも何もわからない。何もわからないけれど、たとえば
というような行(2連目)にはこころが誘われる。あ、こんなふうにことばを動かしてみたいという気持ちにさせられる。(こういう気持ちにさせることばが、詩である。--私は、そう考えている。)
そして、3連目である。
助詞「は」のあとの「”」。この「誤植」が隠しているものは何だろうか。ほんとうはつまり、井坂は、どんなことばを書こうとしていたのか。私は「推理小説」のような謎解きは大嫌いだが、なぜか、こういう「誤植」の推測は好きである。
こういう「誤植」の推測は、井坂の詩のファンならすぐに何が書いてあったのか(書かれるべきだったのか)がすぐにわかることかもしれない。私は井坂の詩はほとんど読んだことがないので、ただ推測するだけである。そして、その推測には、たぶん井坂ではなく、私自身が顔を出してしまうだろう。--そうではあるけれど、ちょっと、推測をつづけてみる。ことばがことばを求めて動いていく--そのことが、私にとっては「詩」そのものの体験なので……。
私は、この「誤植」を「欠落」として読んだ。つまり、
と読んでみた。「 」のなかに入れたことばが欠落しているのだと思って読んだ。
そうすると、この作品には、ある構造が浮かび上がるからである。
「ふむ」と「へむ」は別個の存在だが、どこか共通するものをもっている。そして、そのひとつが別のひとつになじんでくる。つまり、とけあってひとつになる。そして、その「ひとつ」になった「へむ」もまた世界とひとつになってゆく。言い換えれば、「へむ」が消え去る。消滅する。「ふむ」も「へむ」も消えて、世界だけになる。
でも、「ふむ」も「へむ」も消えたら、そのときの「世界」そのものをだれが認識するのか。新しく誕生する誰かである。「ふむ」も「へむ」ももともと読者にはだれのことか(なんのことか)わからない。わからなくていいのだ。それはいずれにしろ、消え去るものだから。そして、消え去りながら、誕生するものこそ「詩人」というものなのだ。
「わからない」が絶妙である。この「わからない」は「わかる」を含んでいる。「移動する大勢」の感じは「わかる」のである。
ことばは、詩のことばは、いつでも「わかる」感じのなかにある「わからないもの」と「わかる」ものを操作しながら、何かを生み出す--その何かになって「詩人」がうまれかわる。そういう作業である。詩を書くということは。
井坂の「誤植」がいったい、ほんとうは何なのかわからないけれど、そのわからないものを井坂の作品のなかに探していて、そんなことを思った。
途中に一か所「誤植」が出てくる。「誤植」は、まあ、よくあることかもしれない。私が引用した作品にも無数の「誤植・誤記」があるだろうと思う。(申し訳ない。)
「誤植」は、普通は、気にならない。
ところが今回に限って、とても気になった。「緑のエキス」の3連目。
心臓を射抜かれた落鳥の速さで
垂れ幕の影の道化の気安さで
”ふむ”は”ふいになじんでくる
人間びょうぶの前
とんがり頭の頂きから
・・・・を命じる
この詩には「”ふむ”」と「”へむ”」が登場する。そして、そのまわりにあれこれことばが飛び交う。具体的ではあるけれど、しかし、「”ふむ”」と「”へむ”」が何(だれ)なのかがさっぱりわからないので、いくら読んでも何もわからない。何もわからないけれど、たとえば
痛みの所在がはっきりしないのに
鈍痛の薄靄が収縮する
というような行(2連目)にはこころが誘われる。あ、こんなふうにことばを動かしてみたいという気持ちにさせられる。(こういう気持ちにさせることばが、詩である。--私は、そう考えている。)
そして、3連目である。
”ふむ”は”ふいになじんでくる
助詞「は」のあとの「”」。この「誤植」が隠しているものは何だろうか。ほんとうはつまり、井坂は、どんなことばを書こうとしていたのか。私は「推理小説」のような謎解きは大嫌いだが、なぜか、こういう「誤植」の推測は好きである。
こういう「誤植」の推測は、井坂の詩のファンならすぐに何が書いてあったのか(書かれるべきだったのか)がすぐにわかることかもしれない。私は井坂の詩はほとんど読んだことがないので、ただ推測するだけである。そして、その推測には、たぶん井坂ではなく、私自身が顔を出してしまうだろう。--そうではあるけれど、ちょっと、推測をつづけてみる。ことばがことばを求めて動いていく--そのことが、私にとっては「詩」そのものの体験なので……。
私は、この「誤植」を「欠落」として読んだ。つまり、
”ふむ”は”「へむ”に」ふいになじんでくる
と読んでみた。「 」のなかに入れたことばが欠落しているのだと思って読んだ。
そうすると、この作品には、ある構造が浮かび上がるからである。
「ふむ」と「へむ」は別個の存在だが、どこか共通するものをもっている。そして、そのひとつが別のひとつになじんでくる。つまり、とけあってひとつになる。そして、その「ひとつ」になった「へむ」もまた世界とひとつになってゆく。言い換えれば、「へむ」が消え去る。消滅する。「ふむ」も「へむ」も消えて、世界だけになる。
でも、「ふむ」も「へむ」も消えたら、そのときの「世界」そのものをだれが認識するのか。新しく誕生する誰かである。「ふむ」も「へむ」ももともと読者にはだれのことか(なんのことか)わからない。わからなくていいのだ。それはいずれにしろ、消え去るものだから。そして、消え去りながら、誕生するものこそ「詩人」というものなのだ。
暗闇から 時々
怒声や罵り声がきこえてくるが
ただ移動する大勢としかわからない
「わからない」が絶妙である。この「わからない」は「わかる」を含んでいる。「移動する大勢」の感じは「わかる」のである。
ことばは、詩のことばは、いつでも「わかる」感じのなかにある「わからないもの」と「わかる」ものを操作しながら、何かを生み出す--その何かになって「詩人」がうまれかわる。そういう作業である。詩を書くということは。
井坂の「誤植」がいったい、ほんとうは何なのかわからないけれど、そのわからないものを井坂の作品のなかに探していて、そんなことを思った。
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