峯澤典子『水版画』(ふらんす堂、2008年07月07日発行)
ことばを読みはじめて、すぐ、この人は何を探しているのだろう、と思った。何を追いかけているのだろう、と思った。たとえば「水しるべ」。その1連目。
「神楽坂から路地を渡る」。そして、どこへ行くのか、見当がつかない。別に見当がつかなくてもいいのかもしれないけれど、これは不思議な感じだ。
どこへ行くかわからないかわりに、いま、ここまで来た道が、過去へ過去へとひきずりこまれる、というのでもない。
ここには、「未来」も「過去」もない。
峯澤のことばには「時間」がない。かわりに「時」だけがある。「時」が「時間」という「幅」をもったありようから切り離されて、孤立している。私には、そんなふうに感じられる。
「時」が孤立するように、「場」を構成する「存在」もまた孤立している。
この2行は「主語」を持たない。「何が」が不明のまま、ことばが動いていく。「濡れた木陰」が存在するが、その存在は何かと結びつくというより、「濡れている」こと「木陰」であることが、2行目で否定される。
「何が?」。そういう意識を否定するように、そんなふうに意識が動いていかないように「雨雲の疱瘡」という見たこともないものがたちはだかる。ことばとことば、それは意識と意識といってもいいのかもしれないが、何か連続した動きを分断して、たちはだかっている。1行目と2行目には連続した意識があるはずなのに、それが見えて来ない。そのために、1行目と2行目は孤立しているように感じられる。
「うすあおい花の球体」(アジサイかなあ……)という「主語」が登場してきたように、一瞬錯覚する。しかし「主語」がかかえこむ「格助詞」がつづかない。「は」「が」がつづかない。「を」という「補語」を呼び込む助詞。
「雨雲の疱瘡のように浮かぶうすあおい花の球体を」と1行に書かれていれば、2行目は「花」を修飾する節だということがわかる。峯澤は1行につづけて書かずに改行するだけではなく、その改行の瞬間に「うすあおい」という別の修飾語(形容詞)を「花」に結びつける。
この「うすあおい」という修飾語によって、「雨雲の疱瘡のように浮かぶ花の球体」は分断され、孤立する。
孤立するだけではなく、「花」そのものが「補語」になることによって、「主語」がわからない不安が、いっそう強くなる。「何が?」 いったい、何が、ここに描かれているのか。ことばは、意識は、どこへ動いていこうとしているのか。
まだ「主語」は出てこない。「主語」のまえに、おそらく「主語」を説明する(補足する)、節が挿入される。「うすあおい」の働きと同じような感じで「たよりない」が、意識を分断する。それぞれのことばを孤立させる。
「時間」が「時」のまま、それぞれの瞬間に、孤立して存在している、という感じがどんどん強くなってくる。
そして。
やっと「主語」が登場する。「述語」が登場する。
やっと「主語」が登場したけれど、それは隠されている。「わたし」ということばを私は無意識に選び、(たぶん、「主語」を省略するという日本語の特性にしたがって)、述語「渡る」の「主語」と仮に考える。
ほんとうは、「猫」かもしれない。「車」かもしれない。
わからないまま、私は「わたし」を「主語」とかってに思い込んだだけである。
そして「主語・わたし」補った瞬間、それまでの行が連続するかというと、私の意識のなかでは連続しない。あいかわらず分断されている。孤立している。そして、その孤立とともに、「人間」というよりも、孤立したひとつの「感覚」が浮かび上がる。目。視覚。「わたし」が目だけになって、私の視覚だけが、孤立して、「時」によって分断されながらさまよっている感じがする。
これは、非常に、非常に、非常に寂しい。
私が最初に感じた不思議さは、この「寂しさ」に原因があるのだと思う。いろんなものが描かれる。しかし、それは、つながっていない。つながっているのは、「わたし」のなかの「寂しさ」だけである。そして、その「寂しさ」が、あらゆる存在に対して、まるで「孤立」を迫っているような感じがする。「寂しい」からすべてが「孤立」してみえる、という感じを通り越している。
対象を孤立させ、そうすることでやっと「わたし」の孤立を受け入れている、という感じがする。
だが、いったん「孤立」が、「寂しさ」が共有されると、どうなるだろうか。「孤立」ではなくなる。
それは、しかし、「わたし」には満足できない。「わたし」はさらに「孤立」を「さびしさ」を追いつづける。
2連目。
目。視覚は、嗅覚、触覚へと広がって行く。広がりながら、孤立と寂しさを求める。「別れてきたひと」ではなく「離れてきた」ひと。「体温の温もり」ではなく「湿り」。その、微妙なゆらぎのなかで、ことばがふるえる。「流通言語」から「孤立」し、「こりつ」した感覚を浮かび上がらせる。
このあと、「寂しさ」は「寂しさ」をさらに追い求めながら、美しく美しくなって行く。
視覚、触覚、聴覚が誘い合いながら「寂しさ」を孤立させる。
この美しさにこそ言及しなければならないのかもしれない。しかし、こういう美しさは、語ってはならないのだ。きっと。読んでもらうべきものなのだ。「寂しさ」はひとりひとりが抱きしめるべきものだから。峯澤が「寂しさ」を抱きしめているように。
ことばを読みはじめて、すぐ、この人は何を探しているのだろう、と思った。何を追いかけているのだろう、と思った。たとえば「水しるべ」。その1連目。
濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
神楽坂から路地を渡る
「神楽坂から路地を渡る」。そして、どこへ行くのか、見当がつかない。別に見当がつかなくてもいいのかもしれないけれど、これは不思議な感じだ。
どこへ行くかわからないかわりに、いま、ここまで来た道が、過去へ過去へとひきずりこまれる、というのでもない。
ここには、「未来」も「過去」もない。
峯澤のことばには「時間」がない。かわりに「時」だけがある。「時」が「時間」という「幅」をもったありようから切り離されて、孤立している。私には、そんなふうに感じられる。
「時」が孤立するように、「場」を構成する「存在」もまた孤立している。
濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
この2行は「主語」を持たない。「何が」が不明のまま、ことばが動いていく。「濡れた木陰」が存在するが、その存在は何かと結びつくというより、「濡れている」こと「木陰」であることが、2行目で否定される。
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
「何が?」。そういう意識を否定するように、そんなふうに意識が動いていかないように「雨雲の疱瘡」という見たこともないものがたちはだかる。ことばとことば、それは意識と意識といってもいいのかもしれないが、何か連続した動きを分断して、たちはだかっている。1行目と2行目には連続した意識があるはずなのに、それが見えて来ない。そのために、1行目と2行目は孤立しているように感じられる。
濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
「うすあおい花の球体」(アジサイかなあ……)という「主語」が登場してきたように、一瞬錯覚する。しかし「主語」がかかえこむ「格助詞」がつづかない。「は」「が」がつづかない。「を」という「補語」を呼び込む助詞。
「雨雲の疱瘡のように浮かぶうすあおい花の球体を」と1行に書かれていれば、2行目は「花」を修飾する節だということがわかる。峯澤は1行につづけて書かずに改行するだけではなく、その改行の瞬間に「うすあおい」という別の修飾語(形容詞)を「花」に結びつける。
この「うすあおい」という修飾語によって、「雨雲の疱瘡のように浮かぶ花の球体」は分断され、孤立する。
孤立するだけではなく、「花」そのものが「補語」になることによって、「主語」がわからない不安が、いっそう強くなる。「何が?」 いったい、何が、ここに描かれているのか。ことばは、意識は、どこへ動いていこうとしているのか。
濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
まだ「主語」は出てこない。「主語」のまえに、おそらく「主語」を説明する(補足する)、節が挿入される。「うすあおい」の働きと同じような感じで「たよりない」が、意識を分断する。それぞれのことばを孤立させる。
「時間」が「時」のまま、それぞれの瞬間に、孤立して存在している、という感じがどんどん強くなってくる。
そして。
濡れた木陰に
雨雲の疱瘡のように浮かぶ
うすあおい花の球体を
たよりない明かりとして
神楽坂から路地を渡る
やっと「主語」が登場する。「述語」が登場する。
やっと「主語」が登場したけれど、それは隠されている。「わたし」ということばを私は無意識に選び、(たぶん、「主語」を省略するという日本語の特性にしたがって)、述語「渡る」の「主語」と仮に考える。
ほんとうは、「猫」かもしれない。「車」かもしれない。
わからないまま、私は「わたし」を「主語」とかってに思い込んだだけである。
そして「主語・わたし」補った瞬間、それまでの行が連続するかというと、私の意識のなかでは連続しない。あいかわらず分断されている。孤立している。そして、その孤立とともに、「人間」というよりも、孤立したひとつの「感覚」が浮かび上がる。目。視覚。「わたし」が目だけになって、私の視覚だけが、孤立して、「時」によって分断されながらさまよっている感じがする。
これは、非常に、非常に、非常に寂しい。
私が最初に感じた不思議さは、この「寂しさ」に原因があるのだと思う。いろんなものが描かれる。しかし、それは、つながっていない。つながっているのは、「わたし」のなかの「寂しさ」だけである。そして、その「寂しさ」が、あらゆる存在に対して、まるで「孤立」を迫っているような感じがする。「寂しい」からすべてが「孤立」してみえる、という感じを通り越している。
対象を孤立させ、そうすることでやっと「わたし」の孤立を受け入れている、という感じがする。
だが、いったん「孤立」が、「寂しさ」が共有されると、どうなるだろうか。「孤立」ではなくなる。
それは、しかし、「わたし」には満足できない。「わたし」はさらに「孤立」を「さびしさ」を追いつづける。
2連目。
いくつ角を折れても
駅前の堀の水の匂いが
坂のしたから追いかけてきて
たったいま改札で離れたひとの
体温の湿りを運んできてしまう
目。視覚は、嗅覚、触覚へと広がって行く。広がりながら、孤立と寂しさを求める。「別れてきたひと」ではなく「離れてきた」ひと。「体温の温もり」ではなく「湿り」。その、微妙なゆらぎのなかで、ことばがふるえる。「流通言語」から「孤立」し、「こりつ」した感覚を浮かび上がらせる。
このあと、「寂しさ」は「寂しさ」をさらに追い求めながら、美しく美しくなって行く。
目を瞑ったまま皮膚で知る
畳を天井をゆるす水と花の照り返し
あなたが目を浸した洗面器に
かた耳をつけると
ちりかかる花びらのような
まあるい和音
ふたりのどちらかが
少しでも深く息を吸うと
紙の花のように
すぐに雨にとけてしまう
視覚、触覚、聴覚が誘い合いながら「寂しさ」を孤立させる。
この美しさにこそ言及しなければならないのかもしれない。しかし、こういう美しさは、語ってはならないのだ。きっと。読んでもらうべきものなのだ。「寂しさ」はひとりひとりが抱きしめるべきものだから。峯澤が「寂しさ」を抱きしめているように。