吉田加南子「しずく」、柏木麻里「蝶へ」(「径」3、2008年06月01日発行)
吉田加南子の作品は非常に批評しにくい。たとえば「しずく」という連作。何度も「しずく」というタイトルが出てくる。その最初の断章。
書かれているのは1行だけである。
ここには「ことば」だけがある。「意味」が見当たらない。吉田は「意味」を意識しているのだろう。「種子」にわざわざ「たね」というルビを振っている。「しゅし」とは読まれたくないのだ。「しゅし」を拒んでいる何かがあるのだ。「意味」につながる可能性がそこにはあるのだろう。しかし、私には「意味」がわからない。
「意味を拒絶したことば」がそこにあるだけ、という印象がある。
2つ目の断章。
これもやはり、どう言及していいのかわからない。最初の「断章」の「空」がここでも登場する。最初の1行が、何らかの形でつづいている。しかし、吉田はわざわざ、もういちど「しずく」というタイトルをつけている。連続を拒否している。
3行、つづけて書いてもいいのに、それを拒絶し、一方でうタイトルを「しずく」と同じものにすることで、連続を強要もしている。
連続と拒否と強要。矛盾が、ここにはある。
「矛盾」というのは、いつでも「思想」の始まりである。そこには、まだことばとして定着していない何か、ことばとして流通していない何かがある。流通言語にはのらない独自のものがある。
連続の拒否と拒絶が吉田の「思想」である。
「しずく」。それを「空の種子です」と定義されたとき、私は、ふと雨粒を思い浮かべる。空から落ちてくるしずく=雨。しかし、吉田は、雨のことを書いているのではない。書いているのかもしれないが、独自の書き方(思想を含んだ書き方)をしている。
「しずく=雨」ではないことは、
で明らかである。「雨」は空から落ちてくるが、吉田の書いているものは、「空から」「落ちる」のではなく「水から」「すべりおちる」。
「雨」のように、「流通」することばではとらえきれないものが、ここには書かれている。そういうものを、いまあることばで書かなければならないということが、詩の苦しみである。(また、楽しみでもあるが。)
「矛盾」は3つ目の断章で拡大する。
ここには「論理矛盾」しかない。普通は「ほどかれること」は「むすばれること」ではない。「ほどく」と「むすぶ」は反対の「意味」をもっている。ところが吉田はそれを「も」という簡単なことばで「同じもの」にしてしまう。
3つ目の断章だけは「しずく」ではなく「しずくの匂い」になっている。
ほんとうは、どの断章も「しずくの匂い」なのかもしれない。この作品は「しずくの匂い」について書かれたものかもしれない。そして、他の断章では「しずく」ですませてきたのに、3つ目の断章だけは「の匂い」と余分なものを付け加えざるをえなかった。「しずく」にしてしまいたいけれど、それでは「矛盾」が大きすぎて、ことばが動いて行かない。「矛盾」をほどき(解きほぐし)、動かす必要があったのだ。「矛盾」のなかでからまりあったものを、解きほぐす。それは、新しい結び目をつくる最初の一歩である。ほぐさないことには、からまりあって、肝心の結び目がつくれない。
連続の拒否と強要のなかに存在する何か。
それが、ここでは、どうしようもなく「表」でに出ざるをえなかった。
吉田が描きたいのは「しずく」ではない。「しずくの匂い」である。匂いは「漂う」ものである。その「漂う」を引き受けて、4つ目の断章がつづく。
「漂う」と「沸く」。あることばのなかには、ひとつの「意味」ではなく、いくつかの「意味」がある。それは通いあう。通い合いながら、しかし、同じものにはならない。同じなら、ことばはつかいわけられる必要はない。
ここにも連続の拒否と強要に似たものがある。つながりたい。つながりたくない。矛盾したものが、そこにはある。
この瞬間。
私の意識は沈黙する。そして、そのとき、あ、吉田の書きたいのは、この「意識の沈黙」なのだということに気がつく。
さまざまなことば。何かを描写する、いくつものことば。その描写のなかで、意識はいつも声を上げようとしている。声になろうとしている。吉田は、その声をいったん黙らせる。沈黙させる。矛盾のなかで沈黙させる。
そして、沈黙のなかで何かが生まれる。生まれる予感がする。
普通、詩は(あるいは、文学は)その生まれる予感を追いかける。追いかけて、ことばに定着させる。ところが、吉田は追いかけない。むしろ、さらに意識を沈黙させることばを書く。意識を沈黙させるためにことばを書く。
7つ目の断章。
「を」と「が」の違い。そこにある「矛盾」。このまえで、意識は沈黙する。沈黙したまま、何かが生まれる、という予感を感じる。
吉田の描いているものは、意識の沈黙の美。意識が沈黙するときにのみ、光のようにさっと駆け抜けていく美である。そういうものを批評することは難しい。一瞬、「あっ」と思う。その「あっ」が、実は批評だからである。「あっ」と思った、という以上のことは、たぶん、吉田のことばに対しては無効である。
*
柏木麻里「蝶へ」も吉田の作品に似ている。ただし、吉田がことばを衝突させることで意識の沈黙を表現するのに対し、柏木は視覚的である。文字と文字との余白で意識の沈黙を表現するからである。
吉田の詩は、声に出して伝えることができる。簡単に言えば、朗読ができる。ところが、柏木の詩は朗読では「意識の沈黙」の部分を伝えることができない。
この2行の美しさは、私が紹介しているインターネットの、この感想文の形式では伝えることができない。「径」の1ページ目から3ページ目へと目で読んできて、その3ページ目の文字の配列のなかに、いや、その文字をとりかこむ「余白」のなかにこそ、詩があるからである。
「径」を読んでください、としかいえない。
「径」を読んで、3ページ目で、ことばを追いつづけた目が、ふっと一点に集中する。その瞬間の、快感。美しい蝶、探していた世界で一匹だけの蝶を、広い広い野で見つけた瞬間に似た喜びを味わってください。
吉田加南子の作品は非常に批評しにくい。たとえば「しずく」という連作。何度も「しずく」というタイトルが出てくる。その最初の断章。
しずく
空の種子(たね)です
書かれているのは1行だけである。
ここには「ことば」だけがある。「意味」が見当たらない。吉田は「意味」を意識しているのだろう。「種子」にわざわざ「たね」というルビを振っている。「しゅし」とは読まれたくないのだ。「しゅし」を拒んでいる何かがあるのだ。「意味」につながる可能性がそこにはあるのだろう。しかし、私には「意味」がわからない。
「意味を拒絶したことば」がそこにあるだけ、という印象がある。
2つ目の断章。
しずく
空からではない
水からすべりおちるのです
これもやはり、どう言及していいのかわからない。最初の「断章」の「空」がここでも登場する。最初の1行が、何らかの形でつづいている。しかし、吉田はわざわざ、もういちど「しずく」というタイトルをつけている。連続を拒否している。
3行、つづけて書いてもいいのに、それを拒絶し、一方でうタイトルを「しずく」と同じものにすることで、連続を強要もしている。
連続と拒否と強要。矛盾が、ここにはある。
「矛盾」というのは、いつでも「思想」の始まりである。そこには、まだことばとして定着していない何か、ことばとして流通していない何かがある。流通言語にはのらない独自のものがある。
連続の拒否と拒絶が吉田の「思想」である。
「しずく」。それを「空の種子です」と定義されたとき、私は、ふと雨粒を思い浮かべる。空から落ちてくるしずく=雨。しかし、吉田は、雨のことを書いているのではない。書いているのかもしれないが、独自の書き方(思想を含んだ書き方)をしている。
「しずく=雨」ではないことは、
空からではない
水からすべりおちるのです
で明らかである。「雨」は空から落ちてくるが、吉田の書いているものは、「空から」「落ちる」のではなく「水から」「すべりおちる」。
「雨」のように、「流通」することばではとらえきれないものが、ここには書かれている。そういうものを、いまあることばで書かなければならないということが、詩の苦しみである。(また、楽しみでもあるが。)
「矛盾」は3つ目の断章で拡大する。
しずくの匂い
ほどかれること
それもむすばれることです
ここには「論理矛盾」しかない。普通は「ほどかれること」は「むすばれること」ではない。「ほどく」と「むすぶ」は反対の「意味」をもっている。ところが吉田はそれを「も」という簡単なことばで「同じもの」にしてしまう。
3つ目の断章だけは「しずく」ではなく「しずくの匂い」になっている。
ほんとうは、どの断章も「しずくの匂い」なのかもしれない。この作品は「しずくの匂い」について書かれたものかもしれない。そして、他の断章では「しずく」ですませてきたのに、3つ目の断章だけは「の匂い」と余分なものを付け加えざるをえなかった。「しずく」にしてしまいたいけれど、それでは「矛盾」が大きすぎて、ことばが動いて行かない。「矛盾」をほどき(解きほぐし)、動かす必要があったのだ。「矛盾」のなかでからまりあったものを、解きほぐす。それは、新しい結び目をつくる最初の一歩である。ほぐさないことには、からまりあって、肝心の結び目がつくれない。
連続の拒否と強要のなかに存在する何か。
それが、ここでは、どうしようもなく「表」でに出ざるをえなかった。
吉田が描きたいのは「しずく」ではない。「しずくの匂い」である。匂いは「漂う」ものである。その「漂う」を引き受けて、4つ目の断章がつづく。
しずく
漂うとき
湧きつづけるのですか
湧きだすとき
ただようのですか
光
って
どこかに
とまりたいの?
「漂う」と「沸く」。あることばのなかには、ひとつの「意味」ではなく、いくつかの「意味」がある。それは通いあう。通い合いながら、しかし、同じものにはならない。同じなら、ことばはつかいわけられる必要はない。
ここにも連続の拒否と強要に似たものがある。つながりたい。つながりたくない。矛盾したものが、そこにはある。
この瞬間。
私の意識は沈黙する。そして、そのとき、あ、吉田の書きたいのは、この「意識の沈黙」なのだということに気がつく。
さまざまなことば。何かを描写する、いくつものことば。その描写のなかで、意識はいつも声を上げようとしている。声になろうとしている。吉田は、その声をいったん黙らせる。沈黙させる。矛盾のなかで沈黙させる。
そして、沈黙のなかで何かが生まれる。生まれる予感がする。
普通、詩は(あるいは、文学は)その生まれる予感を追いかける。追いかけて、ことばに定着させる。ところが、吉田は追いかけない。むしろ、さらに意識を沈黙させることばを書く。意識を沈黙させるためにことばを書く。
7つ目の断章。
しずく
光を生まなければならないのです
光が生まなければならないのです
「を」と「が」の違い。そこにある「矛盾」。このまえで、意識は沈黙する。沈黙したまま、何かが生まれる、という予感を感じる。
吉田の描いているものは、意識の沈黙の美。意識が沈黙するときにのみ、光のようにさっと駆け抜けていく美である。そういうものを批評することは難しい。一瞬、「あっ」と思う。その「あっ」が、実は批評だからである。「あっ」と思った、という以上のことは、たぶん、吉田のことばに対しては無効である。
*
柏木麻里「蝶へ」も吉田の作品に似ている。ただし、吉田がことばを衝突させることで意識の沈黙を表現するのに対し、柏木は視覚的である。文字と文字との余白で意識の沈黙を表現するからである。
吉田の詩は、声に出して伝えることができる。簡単に言えば、朗読ができる。ところが、柏木の詩は朗読では「意識の沈黙」の部分を伝えることができない。
蝶 という
とびら
この2行の美しさは、私が紹介しているインターネットの、この感想文の形式では伝えることができない。「径」の1ページ目から3ページ目へと目で読んできて、その3ページ目の文字の配列のなかに、いや、その文字をとりかこむ「余白」のなかにこそ、詩があるからである。
「径」を読んでください、としかいえない。
「径」を読んで、3ページ目で、ことばを追いつづけた目が、ふっと一点に集中する。その瞬間の、快感。美しい蝶、探していた世界で一匹だけの蝶を、広い広い野で見つけた瞬間に似た喜びを味わってください。
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