監督 是枝裕和 出演 樹木希林、阿部寛、夏川結衣、YOU、原田芳雄
映画が終わった瞬間、「えっ、これで終わり? もっとつづきを見せてよ」と思わず叫んでしまう映画である。
映画のなかでは何も起きない。いや、起きてはいるのだが、そのすべてが「時間」として描かれているので、何も起きていないように見える。「時間」として描かれるというのは、たとえば、あるひとつのシーン。冒頭の樹木希林とYOUがニンジンを削り、ダイコンの皮を剥く。そのとき描かれているのは、料理の下ごしらえをしている「今」という「時間」ではあるけれど、実は、その「今」は長い長い「時間」の積み重ね(料理をするという暮らしの積み重ね)とつながり、ほんとうに私たちが見ているのは「今」ではなく、樹木希林とYOUがそんなうふにして暮らしてきたという「家族の歴史」「家族の時間」である。そこには料理の下ごしらえという「今の現実」だけではなく、それまでのふたりのやりとりの「時間」が描かれている。私たちは、その長い長い「時間」、「今」を支える「過去の時間」を見てしまうので、何も起きていないように錯覚する。
どのシーンも同じである。「今」を描きながら、実は「過去」というか、それぞれの人間のもっている「歴史」「時間」をていねいに描いている。
映画は、海で溺れる少年を救って亡くなった長男の命日に集まった家族と、関係者を中心に描かれる。いわば「一家」が集まり、食事をし、話をする。それだけなのだが、その「それだけ」の奥に、それぞれの「歴史」「時間」が描かれているので、私は、まるでその「家族」の一員になってしまったように感じ、映画に飲み込まれてしまった。樹木希林は私の母ではないが、私の母そのものに感じられた。阿部寛は私の兄弟ではないが、私の兄弟のように感じられた。彼らが表現する「時間」と同じ時間を、私自身が体験したことがあるからだ。「演技」でも「ストーリー」でもなく、「時間」そのものを見ている、「時間」そのものが見えてくるので、そう感じてしまうのだ。
この映画は、そして、そういう「時間」だけを描いているわけではない。「時間」を描きながら、その「時間」をつきやぶってあらわれる「人間のいのち」そのものをも描いている。「過去の時間」という抽象的なものだけが描かれるのなら、たぶん、映画は退屈である。それを破ってあらわれる「人間のいのち」の強さが、ときどき「時間」を消してしまう。「人間のいのち」は「過去」につながるのではなく、「時間」を突き破ることで、一気に「永遠」につながる。そういうシーンが、またすばらしい。
たとえば、樹木希林は、「思い出の曲はブルーライト・ヨコハマ」だという。その理由は? 誰も知らない。誰も知らないその理由を、原田芳雄が風呂に入っているときに、硝子戸越しに、そっと明かす。「原田芳雄が愛人をつくっていたとき、そのアパートの下までこどもをつれて行った。アパートから原田芳雄が『ブルーライト・ヨコハマ』を歌う声が聞こえた」と。「嫉妬」が、その曲の裏に潜んでいる。「我慢」が、その曲の裏に潜んでいる。それはもちろんいしだあゆみの歌そのものがもっている「嫉妬」「我慢」ではなく、樹木希林が付け加えたものである。「人間のいのち」には「嫉妬」や「我慢」という形をとるものがある。「人間の永遠」(人間の絶対真理)というものが、周囲のものを打ち破ってあらわれる。その瞬間がすばらしい。
長男に救われた少年が青年になって命日に訪問する。「もう仏前に参ってもらわなくてもいいのでは」と阿部寛がいう。それに対して樹木希林は猛烈に怒る。「忘れてもらっちゃ困る。つらい思いをしてもらわなくては困る」。それはこどもを失ったやり場のない悲しみ、消えることのない絶望である。
この「嫉妬」「我慢」「絶望」(忘れることのできない心)は「料理の下ごしらえ」の「時間」のように、ひとを安心させる形では表に出てこない。表に出てこないことで、「時間」をどこかでしっかりと縛りつけている。それが、ある瞬間、突然、あらわれる。日常という「連続する時間」を突き破ってあばれる。
人間には日常という時間と非日常という時間がある。それは、どこかで絡み合っている。それがときとして、くっきり見える。くっきり姿をあらわす瞬間がある。ときどき押さえている非日常の時間を爆発させ、日常の時間を安定させるのかもしれない。そういう爆発がないと、日常は狂ってしまうのかもしれない。
そういう「人間のありかた」そのものを、この映画は「ストーリー」に閉じ込めず、「ストーリー」を開いたまま描いている。だから、終わりようがない。結論がない。そして、結論がないがゆえに、え、終わってしまうの?という気持ちが生まれる。ほんとうは、映画の外で「時間」はつづいている。その時間のつづきは、私にもつづいている(つながっている)。そういうことを感じて、こころが震える。
この映画は、俳優陣が演じる「時間」という演技のほかに、もうひとつの演技がある。舞台となった「家」そのものが「演技」している。使い込まれた台所、テーブル、畳や屋襖、ドア、ガラス、鴨居……そういものまでが「演技」している。「演技」という言い方が奇妙ならば、「呼吸」している、と言いなおせばいいだろうか。俳優陣と同じ「空気」を「呼吸」している。同じ屋根の下で同じ「空気」を「呼吸」する。その「呼吸」に窓から入ってくる光さえも反応し、しずかに「呼吸」の色に染まる。細部の色のひとつひとつがとても美しい。生活という時間をくぐり抜けてきた美しさがある。「家」そのものの「歴史」は「家族」の「歴史」。その重なり合った「時間」と「呼吸」。それがこの映画にはある。
もしかすると樹木希林、阿部寛の演技よりも、「家」そのものの「演技」の方が、この映画では重要かもしれない。樹木希林、阿部寛に映画を見ている間は目を奪われたが、映画を見終わって、思い出してみると、舞台の「家」が、私の「家」でもないのに、懐かしい懐かしい我が家に見えてくる。家族が集まり、呼吸する、いっしょに食事し、いっしょに生きていく--そのときの「場」が見えてくる。
他人の家なのに、我が家に見える。他人の母なのに自分母に見える。他人の兄弟なのに自分の兄弟のように感じる。不思議だ。こういう不思議な映画のためにこそ、「傑作」ということばがある。
映画が終わった瞬間、「えっ、これで終わり? もっとつづきを見せてよ」と思わず叫んでしまう映画である。
映画のなかでは何も起きない。いや、起きてはいるのだが、そのすべてが「時間」として描かれているので、何も起きていないように見える。「時間」として描かれるというのは、たとえば、あるひとつのシーン。冒頭の樹木希林とYOUがニンジンを削り、ダイコンの皮を剥く。そのとき描かれているのは、料理の下ごしらえをしている「今」という「時間」ではあるけれど、実は、その「今」は長い長い「時間」の積み重ね(料理をするという暮らしの積み重ね)とつながり、ほんとうに私たちが見ているのは「今」ではなく、樹木希林とYOUがそんなうふにして暮らしてきたという「家族の歴史」「家族の時間」である。そこには料理の下ごしらえという「今の現実」だけではなく、それまでのふたりのやりとりの「時間」が描かれている。私たちは、その長い長い「時間」、「今」を支える「過去の時間」を見てしまうので、何も起きていないように錯覚する。
どのシーンも同じである。「今」を描きながら、実は「過去」というか、それぞれの人間のもっている「歴史」「時間」をていねいに描いている。
映画は、海で溺れる少年を救って亡くなった長男の命日に集まった家族と、関係者を中心に描かれる。いわば「一家」が集まり、食事をし、話をする。それだけなのだが、その「それだけ」の奥に、それぞれの「歴史」「時間」が描かれているので、私は、まるでその「家族」の一員になってしまったように感じ、映画に飲み込まれてしまった。樹木希林は私の母ではないが、私の母そのものに感じられた。阿部寛は私の兄弟ではないが、私の兄弟のように感じられた。彼らが表現する「時間」と同じ時間を、私自身が体験したことがあるからだ。「演技」でも「ストーリー」でもなく、「時間」そのものを見ている、「時間」そのものが見えてくるので、そう感じてしまうのだ。
この映画は、そして、そういう「時間」だけを描いているわけではない。「時間」を描きながら、その「時間」をつきやぶってあらわれる「人間のいのち」そのものをも描いている。「過去の時間」という抽象的なものだけが描かれるのなら、たぶん、映画は退屈である。それを破ってあらわれる「人間のいのち」の強さが、ときどき「時間」を消してしまう。「人間のいのち」は「過去」につながるのではなく、「時間」を突き破ることで、一気に「永遠」につながる。そういうシーンが、またすばらしい。
たとえば、樹木希林は、「思い出の曲はブルーライト・ヨコハマ」だという。その理由は? 誰も知らない。誰も知らないその理由を、原田芳雄が風呂に入っているときに、硝子戸越しに、そっと明かす。「原田芳雄が愛人をつくっていたとき、そのアパートの下までこどもをつれて行った。アパートから原田芳雄が『ブルーライト・ヨコハマ』を歌う声が聞こえた」と。「嫉妬」が、その曲の裏に潜んでいる。「我慢」が、その曲の裏に潜んでいる。それはもちろんいしだあゆみの歌そのものがもっている「嫉妬」「我慢」ではなく、樹木希林が付け加えたものである。「人間のいのち」には「嫉妬」や「我慢」という形をとるものがある。「人間の永遠」(人間の絶対真理)というものが、周囲のものを打ち破ってあらわれる。その瞬間がすばらしい。
長男に救われた少年が青年になって命日に訪問する。「もう仏前に参ってもらわなくてもいいのでは」と阿部寛がいう。それに対して樹木希林は猛烈に怒る。「忘れてもらっちゃ困る。つらい思いをしてもらわなくては困る」。それはこどもを失ったやり場のない悲しみ、消えることのない絶望である。
この「嫉妬」「我慢」「絶望」(忘れることのできない心)は「料理の下ごしらえ」の「時間」のように、ひとを安心させる形では表に出てこない。表に出てこないことで、「時間」をどこかでしっかりと縛りつけている。それが、ある瞬間、突然、あらわれる。日常という「連続する時間」を突き破ってあばれる。
人間には日常という時間と非日常という時間がある。それは、どこかで絡み合っている。それがときとして、くっきり見える。くっきり姿をあらわす瞬間がある。ときどき押さえている非日常の時間を爆発させ、日常の時間を安定させるのかもしれない。そういう爆発がないと、日常は狂ってしまうのかもしれない。
そういう「人間のありかた」そのものを、この映画は「ストーリー」に閉じ込めず、「ストーリー」を開いたまま描いている。だから、終わりようがない。結論がない。そして、結論がないがゆえに、え、終わってしまうの?という気持ちが生まれる。ほんとうは、映画の外で「時間」はつづいている。その時間のつづきは、私にもつづいている(つながっている)。そういうことを感じて、こころが震える。
この映画は、俳優陣が演じる「時間」という演技のほかに、もうひとつの演技がある。舞台となった「家」そのものが「演技」している。使い込まれた台所、テーブル、畳や屋襖、ドア、ガラス、鴨居……そういものまでが「演技」している。「演技」という言い方が奇妙ならば、「呼吸」している、と言いなおせばいいだろうか。俳優陣と同じ「空気」を「呼吸」している。同じ屋根の下で同じ「空気」を「呼吸」する。その「呼吸」に窓から入ってくる光さえも反応し、しずかに「呼吸」の色に染まる。細部の色のひとつひとつがとても美しい。生活という時間をくぐり抜けてきた美しさがある。「家」そのものの「歴史」は「家族」の「歴史」。その重なり合った「時間」と「呼吸」。それがこの映画にはある。
もしかすると樹木希林、阿部寛の演技よりも、「家」そのものの「演技」の方が、この映画では重要かもしれない。樹木希林、阿部寛に映画を見ている間は目を奪われたが、映画を見終わって、思い出してみると、舞台の「家」が、私の「家」でもないのに、懐かしい懐かしい我が家に見えてくる。家族が集まり、呼吸する、いっしょに食事し、いっしょに生きていく--そのときの「場」が見えてくる。
他人の家なのに、我が家に見える。他人の母なのに自分母に見える。他人の兄弟なのに自分の兄弟のように感じる。不思議だ。こういう不思議な映画のためにこそ、「傑作」ということばがある。
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