高柳誠『鉱石譜』(4)(書肆山田、2008年07月20日発行)
逆説や矛盾はことばに緊張感をもたらす。そして緊張感は強い構造の存在を意識させる。詩の定義して、そのことばの運動を「わざと」にあるといったのは西脇順三郎だが、高柳も「わざと」逆説や矛盾をことばの運動のなかに持ち込み、ことばに緊張感をつくりあげている。そしてその緊張感は、繰り返しになるが、対立するものの間に「構造」(空間)をつくりあげる。むりやり、わざと、つくりあげる。この詩集で高柳は「石」をテーマにしている。「石」には「内部」はない、というか、「石」の「内部」には「構造」はなく、そこにはびっしりと「石」が密着している。それが自然である。しかし、そのひとかたまりになっている「石」の内部に、ことばでもって、わざと、構造をつくりあげ、ドラマを仕立て上げる。それが、この詩集である。
「逆説」あるいは「矛盾」と私が呼ぶのは、たとえば、次のような行のことである。
これらのことばは、むりやり、意識の内部に「構造」をつくる。存在しなかった「間」をつくる。
「間」はいつでも「魔」に通じる。
むりやりつくりだされた「間」がはまるでブラックホールである。逆説・矛盾をつくりあげる存在の、その存在がもっている何かを強烈に吸引する。引きずり込む。「死者といえども(いやむしろ、死者だからこそ)」という行では、「死者」からというよりも、「といえども」「だからこそ」ということばの運動そのものから、ことばは運動するものだという意識そのものを吸引する。吸引して、結晶しようとする。ただし、結晶といっても、それは塊ではなく、「組成」する運動そのものである。高柳にとって、「運動」こそが「結晶」である。
「運動」そのものが「結晶」である。--この定義は「矛盾」している。
だからこそ、私は、この定義が正しいと思う。(自画自賛のような文で、申し訳ないが。)
高柳はいつでも「意識」の運動を、流動するままに描くのではなく、つまり不定形でたどれないような形で描くのではなく、正確にたどれるように記録する。あまりに正確すぎて、それは度の強すぎる眼鏡(近眼用)をかけたときのように、意識のなかに、運動の細部を刻印し、そしてその刻印が強烈すぎて一種のめまいを起こす。
このことばを流用すれば、高柳の書くことは、初めから存在していることば(文学として書かれてしまっていることば)以外は何一つ書かない。そうすることで、書かれていることばのすべての既視感を利用し、ことばそのものの「度」(眼鏡の「度」)を強くする。網膜に、脳髄に、エッジの強いことばを刻印する。見えなくていいところまで、むりやり見せつけることで、めまい、錯乱を起こさせる。
「石」が内部に抱え込んでいるものなど、その「出自」や「来歴」など、ほんとうはどうでもいい。どんな「来歴」をたどろうが「石」にかわりはない。その構成物質がかわるょけではない。硬度がかわるわけではない。色がかわるわけではない。--物理的には。
物理的にはかわらない。たしかに、かわらない。しかし、心理的、精神的、意識としてはかわってしまう。
ことばは、文学は、詩は、現実の「物理」の世界を変えることはないが、意識を変えてしまう。意識が変わる、ということは、人間そのものが変わる、たとえば高柳は高柳でなくなってしまう、ということでもある。
その劇的な動きを、高柳は、あくまで活版活字の世界、きっちりとした「枠」のなかで、エッジをたてたまま表現する。
逆説や矛盾はことばに緊張感をもたらす。そして緊張感は強い構造の存在を意識させる。詩の定義して、そのことばの運動を「わざと」にあるといったのは西脇順三郎だが、高柳も「わざと」逆説や矛盾をことばの運動のなかに持ち込み、ことばに緊張感をつくりあげている。そしてその緊張感は、繰り返しになるが、対立するものの間に「構造」(空間)をつくりあげる。むりやり、わざと、つくりあげる。この詩集で高柳は「石」をテーマにしている。「石」には「内部」はない、というか、「石」の「内部」には「構造」はなく、そこにはびっしりと「石」が密着している。それが自然である。しかし、そのひとかたまりになっている「石」の内部に、ことばでもって、わざと、構造をつくりあげ、ドラマを仕立て上げる。それが、この詩集である。
「逆説」あるいは「矛盾」と私が呼ぶのは、たとえば、次のような行のことである。
死者といえども(いやむしろ、死者だからこそ)
(「王族の仮面--Jadeite 翡翠輝いし」)
生きているものがみな/身内に抱え込んだ死を反芻するかのように/
自らのうちを裏返しても裏返しても/もはや内部など何処にも見つからない/
眠れない眠りのうちにいるものたちが/目覚めた後の傷ついた体を起こそうと/
(「瓦礫の風景--Diamond 金剛石」)
これらのことばは、むりやり、意識の内部に「構造」をつくる。存在しなかった「間」をつくる。
「間」はいつでも「魔」に通じる。
むりやりつくりだされた「間」がはまるでブラックホールである。逆説・矛盾をつくりあげる存在の、その存在がもっている何かを強烈に吸引する。引きずり込む。「死者といえども(いやむしろ、死者だからこそ)」という行では、「死者」からというよりも、「といえども」「だからこそ」ということばの運動そのものから、ことばは運動するものだという意識そのものを吸引する。吸引して、結晶しようとする。ただし、結晶といっても、それは塊ではなく、「組成」する運動そのものである。高柳にとって、「運動」こそが「結晶」である。
「運動」そのものが「結晶」である。--この定義は「矛盾」している。
だからこそ、私は、この定義が正しいと思う。(自画自賛のような文で、申し訳ないが。)
高柳はいつでも「意識」の運動を、流動するままに描くのではなく、つまり不定形でたどれないような形で描くのではなく、正確にたどれるように記録する。あまりに正確すぎて、それは度の強すぎる眼鏡(近眼用)をかけたときのように、意識のなかに、運動の細部を刻印し、そしてその刻印が強烈すぎて一種のめまいを起こす。
「私は初めに知っていたこと以外は何一つ学ばなかった」
(「大陸を疾駆する嵐--Carnelian 紅玉髄」)
このことばを流用すれば、高柳の書くことは、初めから存在していることば(文学として書かれてしまっていることば)以外は何一つ書かない。そうすることで、書かれていることばのすべての既視感を利用し、ことばそのものの「度」(眼鏡の「度」)を強くする。網膜に、脳髄に、エッジの強いことばを刻印する。見えなくていいところまで、むりやり見せつけることで、めまい、錯乱を起こさせる。
「石」が内部に抱え込んでいるものなど、その「出自」や「来歴」など、ほんとうはどうでもいい。どんな「来歴」をたどろうが「石」にかわりはない。その構成物質がかわるょけではない。硬度がかわるわけではない。色がかわるわけではない。--物理的には。
物理的にはかわらない。たしかに、かわらない。しかし、心理的、精神的、意識としてはかわってしまう。
ことばは、文学は、詩は、現実の「物理」の世界を変えることはないが、意識を変えてしまう。意識が変わる、ということは、人間そのものが変わる、たとえば高柳は高柳でなくなってしまう、ということでもある。
その劇的な動きを、高柳は、あくまで活版活字の世界、きっちりとした「枠」のなかで、エッジをたてたまま表現する。
日本の現代詩那珂 太郎,高柳 誠,時里 二郎玉川大学出版部このアイテムの詳細を見る |