石田比呂志「万愚節」(「燭台」4、2008年06月20日発行)
10首の短歌。その冒頭と最後の歌。
一瞬、その「距離」に驚く。たぶん<木がらしやわが朝まらの頼りなさ>の笑いにひきずられて、「冬の噴水」の写実から私の目がそれてしまったためである。
「冬の噴水」は「高く上がらず」の「高く」がていねいな描写だ。写実だ。そして、写実であることによって、つまり「高く上がらず」という変化を見る視力があってこその「頼りなさ」がある。「視力」は単に外形を見るだけのものではないのだ。内面を、内部の充実を見てこそ視力なのだ。
短歌にしろ、俳句にしろ、伝統的な定型詩には、こういう外部と内部を結びつけるが感覚ある。視力、聴力、触覚、味覚……。それが融合して外部と内部をつなぎ、その結び目に「宇宙」が出現する。
「香母酸」(かぼす、と読むのだろうか。きっと、そう読むのだろう)の歌。「止まらんとしてその距離保つ」の視力の正確さ。その停止したような「距離」を石田が見つめ、ことばにするとき、たぶん石田の内部にも何かとの「距離」を保つ意識が動いているのだ。そして、その「距離」に対する意識は、「乏しらの」ということばと通い合うことで、石田の精神を描写する。暗示する。そういう「場」へ私を誘って行く。
1首とても気に入った歌がある。
「お」(「を」を含む)と「の」の繰り返し。「路地」の「ろ」と「じ」の音の不思議な結びつきをくぐり抜け、「か行」の変化。短歌の音楽として、歌人は、こういう音をどう評価するのかわからないが、私は、途中の「路地を」にちょっと酔ったような感じを覚えるのである。
10首の短歌。その冒頭と最後の歌。
<木がらしやわが朝まらの頼りなさ>冬の噴水高く上がらず
乏しらの香母酸の花に来る蜂の止まらんとしてその距離保つ
一瞬、その「距離」に驚く。たぶん<木がらしやわが朝まらの頼りなさ>の笑いにひきずられて、「冬の噴水」の写実から私の目がそれてしまったためである。
「冬の噴水」は「高く上がらず」の「高く」がていねいな描写だ。写実だ。そして、写実であることによって、つまり「高く上がらず」という変化を見る視力があってこその「頼りなさ」がある。「視力」は単に外形を見るだけのものではないのだ。内面を、内部の充実を見てこそ視力なのだ。
短歌にしろ、俳句にしろ、伝統的な定型詩には、こういう外部と内部を結びつけるが感覚ある。視力、聴力、触覚、味覚……。それが融合して外部と内部をつなぎ、その結び目に「宇宙」が出現する。
「香母酸」(かぼす、と読むのだろうか。きっと、そう読むのだろう)の歌。「止まらんとしてその距離保つ」の視力の正確さ。その停止したような「距離」を石田が見つめ、ことばにするとき、たぶん石田の内部にも何かとの「距離」を保つ意識が動いているのだ。そして、その「距離」に対する意識は、「乏しらの」ということばと通い合うことで、石田の精神を描写する。暗示する。そういう「場」へ私を誘って行く。
1首とても気に入った歌がある。
夜な夜なを雄(お)を率て路地を徘徊の界隈一の美形の雌猫
「お」(「を」を含む)と「の」の繰り返し。「路地」の「ろ」と「じ」の音の不思議な結びつきをくぐり抜け、「か行」の変化。短歌の音楽として、歌人は、こういう音をどう評価するのかわからないが、私は、途中の「路地を」にちょっと酔ったような感じを覚えるのである。
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