詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子『胡桃を割る人』(2)

2008-07-17 11:33:07 | 詩集
 財部鳥子『胡桃を割る人』(2)(書肆山田、2008年06月30日発行)
 詩集におさめられている作品はどれも短い。短くて、ちょっと無造作にほうりだした印象がある。その無造作の感じが、閉じている、不親切というのではなく、他者に対して開かれているというか、なじんだ挨拶、すれ違うときにかわす「こんにちは」という感じがしてとてもいい。なじんだ人に対しては、すれちがうとき、特別挨拶をするという意識もなく、簡単に「こんにちは」というけれど、その「こんにちは」が気取りがなくて、ふっとこころを誘われる。笑顔にも、ほんの少しのいつもと違うかげりにも、あ、こんなぐないにこころを許しているのかというような、安心が漂う。
 「新緑」という作品。

ストローの夏帽子のかげで
かばんいの紐が喘いでいた


四十雀が遅咲きの山桜を
ついばんでは茶店のベンチへと落としていた
花は完全な五弁のまま落ちている
峠の奥からはもうれつな緑のあいさつ


わたしはもう樹の息をつくしかない
汗染みをのこして胸から羽化していくものがあり
じぶんが
どんな游魂になってしまうのか
言うにいえないのだった


冷し飴を飲んでも
お茶をすすっても樹の味がした

 3連目の「じぶんが/どんな游魂になってしまうのか/言うにいえないのだった」というような表現は「詩」というよりは「説明」である。「言うにいえない」ことをなんとかことばにするのが文学なのに、簡単にほうりだされては困る--と苦情を言いたくなるのだが、このほうりだし、あきらめた、という印象があって、最後の2行が、すーっと収縮する。
 「じぶんが/どんな游魂になってしまうのか/言うにいえないのだった」は、いわば「放心」である。こころを自分にしばりつけず、もう何になってもかまわないと思う。「どんな游魂になってしまうのか」という1行のなかに、その「なる」という動詞が出てくるが、何になってもかまわないという無防備な自己解放があるからこそ、世界が、その一瞬を狙ったように、財部に押し寄せてくる。そして、全方向に放され、散らばっていくこころを一気に集めてしまう。
 求心。
 財部は、ひとつに「なる」。そしてそのときは、財部は財部ではなく、別の存在である。

冷し飴を飲んでも
お茶をすすっても樹の味がした

 財部は「樹」を全身で味わう「味覚」である。ひとつの「感覚」である。純粋な(といっても、とぎすまされた、はりつめたというのではなく)、限りのない感覚である。この限りのなさを「無限」と言い換えると、この詩集の財部のこころのありようがわかりやすくなるかもしれない。
 放心→求心→無限。
 財部は無防備になり、財部を開放する。そうすると、その開放されて「無」になったこころに世界がおしよせてくる。そして、そこで新しい財部をつくりあげる。いままで存在しなかった財部をつくりあげる。その新しい財部は、財部という「枠」を超越している。「無限」へとつながっている。「無限」とは「永遠」とも言い換えることができる。「永遠」は「真」とも言い換えることができる。

 放心→求心→無限=永遠=真

 この運動が短い詩篇のなかに凝縮している。





衰耄する女詩人の日々
財部 鳥子
書肆山田

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