詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「亀裂についてのノート--アフォリズムの稽古⑯」

2008-07-19 09:21:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川透「亀裂についてのノート--アフォリズムの稽古⑯」(「燭台」4、2008年06月20日発行)
 ことばはどこまで自由になれるのだろうか。北川透のことばを読むときまってそう考えてしまう。どうすれば、ことばは自由になれるのだろうか、とも。
 「亀裂について」は関門海峡を題材にしている。いや、こういう言い方は正しくはないかもしれない。題材というより、出発点にしていると言うべきなのかもしれない。どんなことばも何らかの具体的な「もの」と向き合ってはじまる。「亀裂について」は関門海峡と向き合ってはじまる。

濃霧を切り裂いていく汽笛で目覚めた。
傾斜の激しい石の階段を降りると、
海沿いの道路に出る。夜の開けきらない大気の中に
ぼんやりと現れた巨体は、幽霊船のようだった。

 この書き出しはとても平凡である。海峡、濃霧、汽笛。特に1行目にあらわれた「切り裂いていく」という汽笛を修飾することばは、まるで古い歌謡曲のようでさえある。さらに、傾斜の激しい石の階段、夜の開けきらない、ぼんやり現れた、幽霊船。あらゆることばが、どこかにしばられている。何かからしばられている。何かとは、たとえば「抒情」かもしれない。
 ここから北川はどんなふうにことばの自由を獲得できるだろうか。
 2連目の書き出しは、とてもおもしろい。

海でもない。

 関門海峡は、もちろん海である。だれが見ても海である。海ではない、という断定は、矛盾である。だからこそ、北川は「海ではない」と書く。矛盾の力を借りて、1連目に押し寄せてきた「流通言語」を否定しようとする。そこから離れようとする。

海でもない。河でもない。湖でもない。

 「ない」という否定を重ねる。
 この重ねつづける「ない」という否定が、また、私にはとてもおもしろく感じられる。ここに北川の悪戦苦闘(?)を見て(見てしまって?)、ほんとうのことを言うと、笑ってしまった。おかしい。絶対的に、おかしい。
 「海でもない」は、1連目の、通俗的な海峡のイメージを拒絶するために持ち込まれた絶対的な矛盾である。ところが、「河でもない。湖でもない」は、現実とつきあわせると絶対的矛盾とはならない。関門海峡は、だれが見たって「河でもない。湖でもない」。それは「事実」である。
 「海でもない」ということばだけの絶対矛盾につづいて、「事実」が描写されてしまう。事実に、ひっぱられてしまう。「海ではない」という、ことばの絶対自由を手に入れたと思ったのに、その自由は育つまもなく、「事実」にまみれた(?)ことばにひきずりおろされる。
 ここには関門海峡を「海でもない」と断定する以上に、奇妙な、不思議な、おかしいとしかいいようなのないことばの運動がある。
 北川は何をしたいのか。

海でもない。河でもない。湖でもない。

 「ない」と3回繰り返し、繰り返すことで、ひたすら1連目のイメージを消し去ろうとするのである。そのイメージからとおく離れようとするである。その離れようとする意識が強すぎて、「河でもない。湖でもない」という「矛盾」ではなく、「事実・真実」がまぎれこんでしまう。まぎれこんできたことに気がつかない。いや、気がつかない、ということはない。最初は気がつかなくても、書いた瞬間に、気づいてしまう。
 気がつけば、やりなおせばいいのだろうか?
 北川はやりなおさない。まちがい(?)を次の行で、次のことばでねじふせてゆく。まちがいを「踏み台」にして、さらに動きを進めていく。たとえば走り幅跳びや走り高跳びの選手がスタートする前、一瞬、体を後ろにひいて反動を利用して走り出すのに似ている。「河でもない。湖でもない」は、そういう反動(反作用)を引き出すための、無意識の思想(肉体としての思想)である。ことばにも「肉体」というのは、あるのだ。
 反動をつけて、ことばは、どう動くか。

海でもない。河でもない。湖でもない。
この細長い、深く豊かな亀裂の中を、
生き永えた潮の時間は、今朝も激しく流れている。

 「亀裂」。このことばの登場によって、「河でもない。湖でもない」の絶対的事実・真実が、「海でもない」に吸収され、1連目の完全否定がはじまる。
 「海でもない。河でもない。湖でもない」は「外見」の否定であり、「外見」から「内面」(内部)を視線を(意識を)方向転換させるための定義なのである。関門海峡は「外見」としては「海」に見える。巨大な「水」の塊が見える。だが、北川は、その「外見」ではなく、「内面・内部」へとことばを向ける。
 ことばの自由とは、内部(内面)を語るときにこそ力を発揮する。内部(内面)は見えない。だからこそ、そこでは何が起きているかを語ることは、語った方が「勝ち」なのである。
 
 とはいいながら、北川が目を向けた「内面」が「時間」というのは、これもまた、現代では「流通言語」である。存在を内面の時間によって描くというのは基本的な文学の常識である。いつでもことばは北川の足元をすくうようにしてやってくる。押し寄せてくる。それと、どう戦うか。どうやって自由を獲得するか。

海なら沖から岸に向かって波は押し寄せる。
河なら上方から下方へ水は流れる。
湖なら水面下は騒ぎ立っていても、表面は穏やかである。
東から西へ、西から東へと繰り返し転換するダイナミックな流れ。この急斜面の険しい知性が身体を開いた亀裂。それを満たす豊かな時間の方向や速度は一定しない。

 2連目の1行を、書き直すことで、否定しようとするもの、否定という反作用を利用して突き進む方向を修正する。あるいは、あらたに発見する。「身体」と「時間」。目の前にある関門海峡。それを目にしながら、そこから、どこまで自由にことばを動かして行けるか。
 ここまで読んでしまえば、あとは、もう北川の悪戦苦闘を楽しむだけである。申し訳ないが、他人が悪戦苦闘している瞬間ほど、見ていて楽しいものはない。無理なことをしているひとは、みんな美しい。おかしくて、笑いながら、けれども、あ、そうか、と思う瞬間が、他人の悪戦苦闘を見ているときには、かならずある。そういう楽しさが、このあと6ページつづく。そして、その途中には、

すべての亀裂は痛みにあえいでいる。

いま、おまえが自分の前に横たわっている、
やわらかい亀裂に、世界を抗争する男根を挿入できれば、
苦痛は市場の快楽に転化する。

というような、それこそ「アフォリズム」に満ちた行も登場するが、その行までのあいだに、ことばがどんなふうに動いたか、気になりません? 1連目が、途中でそんなことばに変わってしまっているというのは、おかしくないですか? 楽しくて、笑いが込み上げてきませんか? (このことばの過程は、ぜひ、北川の作品そのもので体験してください。作品が長いので、ここでは引用を省略します。)

 動きはじめたことばは、どこへでも動いて行くことができる。そして、その動いて行けるということこそが「詩」である。動きだすときのエネルギーが「詩」である。
 この作品の場合、それは2連目の1行目、

海でもない。河でもない。湖でもない。

 からはじまっている。




続・北川透詩集 (現代詩文庫)
北川 透
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