詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美「出航」

2008-07-10 00:28:25 | 詩(雑誌・同人誌)
川口晴美「出航」(「大マゼラン」11、2008年05月10日発行)

 「浴槽」と「わたし」。この関係は、たいてい「浴槽」に「わたし」が入るという形をとる。この詩も最初はそういう形をとっている。

 浅い浴槽でした。横幅は、ひとり横たわって入るのにちょうどいい狭さ。

 しかし、この書き出しにもすでに「浴槽」が「浴槽」でなくなり、「わたし」が「わたし」ではなくなる予感のようなものがある。

ちょうどいい狭さ

 「広さ」ではなく「狭さ」。そこにあるのは、触覚である。広いとき、私たちはなににも触れることができない。対象との距離がないとき(狭いとき)、私たちは何かに触れる。
 触れることをめぐって、川口の「変形」は始まる。

 ひた、と湿った足音がしました。

 狭さによって覚醒された触覚は「湿った」足音を聞く。この行で大事なのは「音」ではない。「聞く」ではない。「湿った」という感覚である。その「湿った」という「聴覚」ではないものが「聴覚」を刺激している。「聴覚」が「湿った」という感覚に侵食され、普通は聞こえないものを聞いてしまっている。

 ひた、と湿った足音がしました。浴室のタイルもわたしも、いまは乾いているはずなのに。浴室の扉はとざされてここにいるのはわたしだけ。ほんとうに聞こえたのでしょうか。記憶ちがいかもしれません。いいえ記憶のなかから響いてきたのかもしれません。きっと、そう、さっき跣で中庭を横切ったときの足音を、おもいだしたのですわたしは。

 音は、外部からはやってこない。記憶--「わたし」のなかから聞こえてくる。そして、それは「湿った」音である。「わたし」は「乾いているはず」なのに、それは「湿っ」ている。
 「湿った」ものと「乾いた」もの。それは、どこで出会うのか。引き金は「狭さ」である。接触である。触覚である。
 「記憶」の音を、川口は、次のように言い換えてもいる。

 ひた。わたしの体から湿った音がする。

 「記憶」とは「体」である。「湿った」ものと「乾いた」ものは、「体」で出会っているのである。この「体」を川口は、さらに言い換えている。

ぬかるんだ泥に濡れたのか、乾いた芝草と花を付着させたのか、滑らかな土に擦られたのか、覚えているのはわたしではなくわたしの皮膚です。

 「体」とは川口にとって「皮膚」のことである。その皮膚は、いま、「浴槽」に触れている。「水」に触れている。そして、そこでは「狭さ」は消えてしまっている。「皮膚」「水」「浴槽」がぴったりと重なる。そのとき、川口は「変身」する。

 わたしは開かれ、解かれて知らない場所になりました。わたしは浅い浴槽でした。

 「わたし」は「浴槽」に「変身」する。
 詩とは、ことばをつかって、ことばを書くことによって、「わたし」が「わたし」ではなくなってしまうことである。あることがらを書くということは、それまで存在しなかったものを出現させることである。その過程で、川口は「わたし」から「浴槽」になる。「変身」する。つまり、それは「詩」になってしまうということである。

 ひた。濡れた乾いた音をたて、中庭を、夜を斜めに切り裂いて、舟はここをはなれてゆきます。

 「ここ」とは「わたし」にほかならない。そのとき「わたし」ば「わたし」ではなく、「詩人」である。「濡れた乾いた」という矛盾を生きるしかない「いのち」である。




lives―川口晴美詩集 (現代詩人叢書)
川口 晴美
ふらんす堂

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