詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「木」

2008-07-01 11:53:04 | 詩集
 松浦寿輝「木」(「現代詩手帖」2008年07月号)
 私は「木」というタイトルに軽いめまいを覚えた。「本」と読んでしまっていた。

その木は昏い、その木は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

 この書き出しを私は

その本は昏い、その本は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、

 と、読み違えていた。なぜ読み違えたのか。よくわからないが、たぶん、私のなかには松浦は「ことば」について書く詩人だという先入観がある。対象を描いているようで、実際は「ことば」について書いている。ことばと意識の関係について書いている、という先入観がある。そのために、「本」と、つまり「ことば」でできたものについて書こうとしていると思い込んでしまったのである。
 ところが、「木」であった。あ、「本」ではなく、「木」なのか、と気がついたのは、先の引用につづく次の文を読んだときである。

その木は果てしなく大きな樹冠を夜空に広げ、わたしの頭上をすっぽり覆い尽くし、葉むら越しにかすかに洩れた月光だけがわたしの足元にまでとどいて、あちこちアスファルトの崩落した道路とそこにつもる枯れ葉の山を仄かに照らしている、

 「本」の描写とはあきらかに違う。「あ、木だったのか」。
 しかし、「木」だと気づいた後も、どうも「木」だという気がしない。たしかに「本」の描写とは言えないのだけれど、なんとなく「木」を超えた存在にしか見えない。どの描写もたしかに「木」をとらえているのだけれど、そのとらえ方が「ことば」にしか見えない。「木」というより、「木」を描写することばだけがある。なぜ、こういう思いがするかというと、たぶん、松浦の文体のせいである。
 松浦はこの作品では句点「。」ではなく、読点「、」だけでことばをつないでいる。どこまでも果てしなくことばがつづき、終わらない。この「終わりのなさ」が「木」という自然の存在から、とても「遠い」。「木」は松浦の「意識」の外にあって、松浦のことばを動かしているのではない。松浦の「意識」が「木」にそって動いていく。その動きが広がり、立ち上がり、松浦自身をすっぽりつつんで、「木」になる。
 ことばを書くということは、たしかにそういうことなのだから、これはこれで「木」なのだろうけれど、しかし、私にはやっぱり「木」は見えない。「木」に似た印象はあるが、「木」そのものの手触りがなく、「木」に触っている、たとえば「木」の幹に、広がる枝に、幾枚もの葉に触っているというよりも、「ことば」に触っている、という印象しかない。「ことば」が動いていく、その不思議な粘り強い動きに触り、触ることで、私自身がからめとられていく、という印象がある。それも、ほんとうなら(何が「ほんとう」かは難しいけれど)動いていくところではない「場」へとひきずられていく感じがする。「異常」と書くと言いすぎになると思うけれど、「自然の世界」とは違う「場」へひきずられていく感じがする。(だからこそ、「文学」と言えばそれまでなのだけれど。)

 この不思議な粘着力のあることばの動き--それをつくっているのは「その」ということばだ。指示代名詞。先行することば(対象)を指し示す代名詞。

その木は果てしなく大きな樹冠を夜空に広げ、

 の「その」。なんでもないことばのようだが、松浦の文章、松浦のことばは、詩も小説も、この「その」がないと、実は成り立たない。
 「その」によって、先行する対象を明確に意識し、その意識からさらに先へ進む。それは先行する対象と「接続」しているが、同時に「切断」もしている。
 松浦はまず「その木は昏い、その木は激しい、その木は憤ろしい、しかも静かだ、」と「抽象」的に描写した後、それに接続しながら、「その木は……」以後、「具体」的にことばを動かしていく。「抽象」と「具体」。その「接続」と「切断」のあいだに「その」が存在する。

 書き出しの「その木は……」の繰り返しに戻って、ことばを追ってみるとそのことがさらに明確になる。
 先行する存在がないのに「その」という指示代名詞をつかう。これは、「教科書文法」からいうと「反則」である。「その」って何? 何を指す? 先行する存在がないのに「その」とはどういうこと?
 「その」は実は、松浦の意識のなかにだけある。
 「その」は現実には存在しない。
 松浦は意識のなかにだけ存在する「木」と接続するために「その」ということばをつかう。「読者」をことばの運動の外にほうりだしておいて、松浦だけがかってに、松浦の知っている「木」、意識のなかに存在する「木」と接続する。意識のなかに「木」を出現させる。それは、「接続」から始まる「その」である。
 そして、この「接続」は、「木」が存在しない現実からの「切断」でもある。松浦は目の前に存在する「木」ではなく、意識のなかにある「木」に「接続」しているのだから、それは現実の側から見れば「切断」である。

 対象と「接続」するための強引な「その」。むりやり「木」を出現させるための「その」。「その」ということばをつかって、松浦はことばを、つまりは意識を動かすのである。そしていったん動きはじめると、今度は、その「意識」を存在する対象として、あらためて「その」によって、「接続」と「切断」を繰り返す。それが「その木は果てしなく……」の「その」である。
 この「その」は何度も繰り返される。先の引用につづく文は「その木は太い幹から無数の枝を縦横に伸ばし複雑に絡み合わせている、」である。さらに「その幹はちょっとしたビルほどの太さがあるけれど、」という具合にも繰り返しつかわれる。
 そして、「その」を繰り返すことで、「接続」と「切断」は加速し、どんどん、ことばそのもの、「意識」そのものの運動へと突き進んで行く。「木」はどこかへ消えてしまい、「数」という抽象的なものが暴れ回る。意識は「木」ではなく、「数」をめぐって動く。
 そのハイライトの部分。

手負いの虎が瀕死の床で瞬時のやすらぎとともに見るおびただしい夢の断片の一つ一つに刻印された数、突風が吹きつけてきて枯れ葉が一挙に舞い散りそれとともに四方八方にひるがえって交雑する無数の数、その圧倒的な現前のさまを思え、重量、密度、温度、種々様々な単位が混雑し交雑し、時間と空間が睦み合い愛し合い一つに溶け合ってゆく、

 「その圧倒的な現前の……」の「その」。そこから始まるハイになった意識の運動。「木」はどこへいった?
 私は、がまんできずに、笑いだしてしまった。おかしい。こんな文章って、あっていいの? 何を書いているの? これは、楽しい、という意味である。
 私の引用している文章だけを読んでいるひとには、きっと、「木」と「重量、密度……」の関係はわからないだろう。どうして、そんな「世界」が出てくる? コッポラの「地獄の黙示録」でジャングルから突然虎が飛び出してくる美しさに似た楽しさと輝きがある。わけがわからない(必然性が納得できない)、けれど、びっくりして、思わず笑ってしまう「いのち」の噴出--そういうものを感じる。
 これは、すべて「その」が引き起こす運動なのである。

 そして、その果てに。
 私はもう一度びっくりする。めまい、そのもののなかに落ち込んでしまう。

その本を見つけねばならぬ、そのなかにこそほんとうの数が潜んでいるのだから、そのページの上にこそ数えられない数がくっきり印字されているのだから、その本は昏い、その本は激しい、憤ろしい、しかも静かだ、果てしなく大きな樹冠を夜空に広げているその本のなかに歩み入っていかねばならぬ、

 え? 「木」じゃなくて、「本」?
 私は思わず、書き出しに戻って読み返してしまった。最初はたしかに「木」なのである。それが、いくつもの「その」による「接続」と「切断」を繰り返して、「本」になってしまった。
 「木」から「本」への変化、運動が「その」のなかにつまっているのだ。そして、その「その」によって引き起こされることばの運動が松浦にとっての「詩」であり、「文学」なのだ。




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