高柳誠『鉱石譜』(3)(書肆山田、2008年07月20日発行)
「沈黙の舞踏--Xylophonite 木琴石」はとても美しい詩だ。その書き出し。
4行目「出自と来歴」ということば、その「と」。「と」に高柳の特徴がある。「と」は「ひろがり」をつくりだす。「出自」と「来歴」。そこに自然に「時間」という「間」が生じる。そして、その「間」は必然である。「出自」なしに「来歴」はない。
この「間」を高柳は別のことばで言い換えている。
「組成」。「組成」は「存在」の「来歴」である。あらゆる「存在」に「出自」はある。そして、「出自」のあと独自の「来歴」をへて、存在は確固とした存在になりかわる。たとえば「木琴石」はたたかれるという「来歴」をへて、音を出すという「来歴」をへてこそ「木琴石」になる。たたかれ、音を出すという時間をへなければ、それは「木琴石」ではないのだ。
たたかれ、音を出す。ただそれだけのことだが、そのたたかれ方、音の出方によって、「木琴石」は、またそれぞれの場に振り分けられ、新たな「来歴」を築き上げることになる。より強固な「組成」のなかに組み込まれていく。
「組成」の過程で起きていることの描写にも高柳の独自性がある。
「波紋」。そのりゅうどうせい。動き。「組成」はもとより、動かないものである。「組成」される過程では、あらゆるものがその場を求めて動くが、いったん組成されてしまえば、組成そのものは動かない。「強固な組成」なら、なおさらである。
しかし、高柳は、その「強固な組成」が「澄明な波紋」をもつという。強固なものと流動的なものの結合。しかも、そのとき表に出てくるのは「澄明な」という形容詞である。「にごった」「よごれた」「ゆるんだ」「なまあたたかい」というような、一種の、肉体的なやわらかさを拒絶した何か、「澄明な」という、この世界では「まれ」な、純粋な何か。
高柳は、あらゆる強固な構造物に、澄明な揺らぎを見ているのである。
最初にこの詩集にふれたとき、私は活字活版のことを書いた。文学の歴史のことを書いた。活版活字によって伝達される文学。その強固なことばの組成のなかに、高柳は、「澄明な波紋」を見ているのである。「澄明な波紋」は、そういう強固な組成のなかにしかないと信じている。それを追求しているのである。
ことばとことばが出会い、組み合わさり、ひとつの作品となる。ことばが作品に「組成」される。そのとき、そのことばの構造のなかで「清澄な波紋」があるのだ。「清澄な波紋」が起きるのだ。--そういう「波紋」を高柳は、高柳の特権として(詩人の特権として)目撃し、それを報告する。それが高柳の詩である。
詩のつづき。
この、
の2行の激しい矛盾。
「音」が存在するなら、そこには「沈黙」と「静寂」は存在しない。「音」と「沈黙」「静寂」は同じものではない。そして「沈黙」と「静寂」はほとんどの場合、同じものである。ひとが黙っている。それが沈黙だと定義できるが、そのときの沈黙は、その場の静寂そのものと同じである。そこには差異はない。したがって「劇」もない。「劇」は異質なものが出会い、何かが(どちらかが)変わってしまうことである。
ここには「矛盾」がある。そして「矛盾」がある、ということは、ここには「思想」があるということだ。「思想」になりきれていない「思想」があるということだ。
最初に「出自と来歴」の「と」について書いた。ここにも「沈黙と静寂」という形で「と」がつかわれている。「と」は「ひろがり」をつくりだすものである。「沈黙」と「静寂」は普通はほとんど同じものだが、その「同じもの」の間に「と」を挿入することで、そこに大きな「ひろがり」、つまり「隔たり」(間)を高柳はむりやりつくりだし、「隔たり」(間)が存在しうるから、「劇」も存在しうると、ことばを動かしてゆくのである。
現実へ、ではなく、「意識」そのものの方向へ。
高柳のことばは現実世界へ向けては動いて行かない。「意識」そのものの世界へ動いてゆく。「意識」のなかでは「沈黙」と「静寂」はまったく別のものである。ことばが違うということは、その存在が「意識」にとっては別個の存在である、ということである。
高柳は「意識」の「組成」のなかで「詩」を動かしている。「詩」を輝かせている。活版活字の「枠」は「意識」の「枠」でもある。ことばが文字になり、しっかりと「1ページ」という「枠」のなかに入る。活字が「組成」する「1ページ」のなかに。
「意識」と「ことば」がしっかりと対応しながら、ひとつの独自空間(言語空間)を「組成」する。そこでは現実を超越した現象、つまり「詩」が起きる。それは、「強固な組成のみがもちうる/澄明な波紋」のようなものである。それは「意識」にしか認識されない。肉眼とか触覚では認識されない。「頭脳」の、その奥の奥の「純粋意識」によってのみ認識されるものである。それは肉体とか現実とかを拒絶して存在する独自の世界なのである。
ここにも「対立」「葛藤」「相克」という「矛盾」そのものが生み出す「現象」がある。そして、そういう「矛盾」のもっとも大きなものは、「耳にしてはいけない」。「耳にしてはいけない」と高柳は書くが、ほんとうは「耳にしたい」のである。「耳にし」なければ生きている価値はない。
「あなた自身」(つまり、詩人自身、あるいは私自身)が、完全に覆って「あなた」「詩人」「私」でなくてしまう。それが文学の一番の目的(?)だからである。高柳は、そういうことばの運動を、現実へ向けてではなく、「文学」へ向けて動かしている。「活版活字」の「枠」のなかへ向けて動かしている。
「文学」を「文学」するために「詩」を書いている。
「沈黙の舞踏--Xylophonite 木琴石」はとても美しい詩だ。その書き出し。
沈黙にふける石の舞踏 あるいは
石を離脱しようとする音の形
一瞬の打擲(ちょうちゃく)によって溢れ出る気韻に
己の出自と来歴のすべてをさらし
形象をふりほどく波動のかたち
強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋とひきかえに
析出してゆく沈黙の叫び
沈殿してゆく静寂の祈り
4行目「出自と来歴」ということば、その「と」。「と」に高柳の特徴がある。「と」は「ひろがり」をつくりだす。「出自」と「来歴」。そこに自然に「時間」という「間」が生じる。そして、その「間」は必然である。「出自」なしに「来歴」はない。
この「間」を高柳は別のことばで言い換えている。
「組成」。「組成」は「存在」の「来歴」である。あらゆる「存在」に「出自」はある。そして、「出自」のあと独自の「来歴」をへて、存在は確固とした存在になりかわる。たとえば「木琴石」はたたかれるという「来歴」をへて、音を出すという「来歴」をへてこそ「木琴石」になる。たたかれ、音を出すという時間をへなければ、それは「木琴石」ではないのだ。
たたかれ、音を出す。ただそれだけのことだが、そのたたかれ方、音の出方によって、「木琴石」は、またそれぞれの場に振り分けられ、新たな「来歴」を築き上げることになる。より強固な「組成」のなかに組み込まれていく。
「組成」の過程で起きていることの描写にも高柳の独自性がある。
強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋
「波紋」。そのりゅうどうせい。動き。「組成」はもとより、動かないものである。「組成」される過程では、あらゆるものがその場を求めて動くが、いったん組成されてしまえば、組成そのものは動かない。「強固な組成」なら、なおさらである。
しかし、高柳は、その「強固な組成」が「澄明な波紋」をもつという。強固なものと流動的なものの結合。しかも、そのとき表に出てくるのは「澄明な」という形容詞である。「にごった」「よごれた」「ゆるんだ」「なまあたたかい」というような、一種の、肉体的なやわらかさを拒絶した何か、「澄明な」という、この世界では「まれ」な、純粋な何か。
高柳は、あらゆる強固な構造物に、澄明な揺らぎを見ているのである。
最初にこの詩集にふれたとき、私は活字活版のことを書いた。文学の歴史のことを書いた。活版活字によって伝達される文学。その強固なことばの組成のなかに、高柳は、「澄明な波紋」を見ているのである。「澄明な波紋」は、そういう強固な組成のなかにしかないと信じている。それを追求しているのである。
ことばとことばが出会い、組み合わさり、ひとつの作品となる。ことばが作品に「組成」される。そのとき、そのことばの構造のなかで「清澄な波紋」があるのだ。「清澄な波紋」が起きるのだ。--そういう「波紋」を高柳は、高柳の特権として(詩人の特権として)目撃し、それを報告する。それが高柳の詩である。
詩のつづき。
強固な組成のみがもちうる
澄明な波紋とひきかえに
析出してゆく沈黙の叫び
沈殿してゆく静寂の祈り
闇の充溢が凝る結晶から
硬質の音の放射がきらめいて
沈黙と静寂の劇を産み落とす
この、
硬質の音の放射がきらめいて
沈黙と静寂の劇を産み落とす
の2行の激しい矛盾。
「音」が存在するなら、そこには「沈黙」と「静寂」は存在しない。「音」と「沈黙」「静寂」は同じものではない。そして「沈黙」と「静寂」はほとんどの場合、同じものである。ひとが黙っている。それが沈黙だと定義できるが、そのときの沈黙は、その場の静寂そのものと同じである。そこには差異はない。したがって「劇」もない。「劇」は異質なものが出会い、何かが(どちらかが)変わってしまうことである。
ここには「矛盾」がある。そして「矛盾」がある、ということは、ここには「思想」があるということだ。「思想」になりきれていない「思想」があるということだ。
最初に「出自と来歴」の「と」について書いた。ここにも「沈黙と静寂」という形で「と」がつかわれている。「と」は「ひろがり」をつくりだすものである。「沈黙」と「静寂」は普通はほとんど同じものだが、その「同じもの」の間に「と」を挿入することで、そこに大きな「ひろがり」、つまり「隔たり」(間)を高柳はむりやりつくりだし、「隔たり」(間)が存在しうるから、「劇」も存在しうると、ことばを動かしてゆくのである。
現実へ、ではなく、「意識」そのものの方向へ。
高柳のことばは現実世界へ向けては動いて行かない。「意識」そのものの世界へ動いてゆく。「意識」のなかでは「沈黙」と「静寂」はまったく別のものである。ことばが違うということは、その存在が「意識」にとっては別個の存在である、ということである。
高柳は「意識」の「組成」のなかで「詩」を動かしている。「詩」を輝かせている。活版活字の「枠」は「意識」の「枠」でもある。ことばが文字になり、しっかりと「1ページ」という「枠」のなかに入る。活字が「組成」する「1ページ」のなかに。
「意識」と「ことば」がしっかりと対応しながら、ひとつの独自空間(言語空間)を「組成」する。そこでは現実を超越した現象、つまり「詩」が起きる。それは、「強固な組成のみがもちうる/澄明な波紋」のようなものである。それは「意識」にしか認識されない。肉眼とか触覚では認識されない。「頭脳」の、その奥の奥の「純粋意識」によってのみ認識されるものである。それは肉体とか現実とかを拒絶して存在する独自の世界なのである。
沈黙から飛び立つ気韻
静寂から簇生(そうせい)する石韻
それら対立葛藤し相克する
透明な祈りと叫びの戦いを
耳にすることはできない
耳にしてはいけない
耳に入り込んだら最後
石韻の静寂によって
気韻の沈黙によって
鼓膜の薄絹は引き裂かれ
魂の奥底に埋め込まれた
あなた自身の沈黙の石と
幾夜もの静寂の祈りとが
一挙に覆ってしまうから
ここにも「対立」「葛藤」「相克」という「矛盾」そのものが生み出す「現象」がある。そして、そういう「矛盾」のもっとも大きなものは、「耳にしてはいけない」。「耳にしてはいけない」と高柳は書くが、ほんとうは「耳にしたい」のである。「耳にし」なければ生きている価値はない。
あなた自身の沈黙の石と
幾夜もの静寂の祈りとが
一挙に覆ってしまうから
「あなた自身」(つまり、詩人自身、あるいは私自身)が、完全に覆って「あなた」「詩人」「私」でなくてしまう。それが文学の一番の目的(?)だからである。高柳は、そういうことばの運動を、現実へ向けてではなく、「文学」へ向けて動かしている。「活版活字」の「枠」のなかへ向けて動かしている。
「文学」を「文学」するために「詩」を書いている。
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