詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

財部鳥子『胡桃を割る人』

2008-07-16 09:11:10 | 詩集
 財部鳥子『胡桃を割る人』(書肆山田、2008年06月30日発行)
 巻頭の「見聞」という詩がとても気持ちがいい。その全行

古い村落の
祠のそばの大きな樟


雨傘のような全体の形
幹は白鳥の首のようで
半円 半球の梢を支えている
幹に触れば恐竜のうろこのように厳めしく
このあたり文字では表しきれない


こんな比喩だらけの手紙から
りっぱな樟は芽生えないのを
彼はよく知っていて
休日ごとに火車に乗って
樹を見に行くと書いてきた


大きな雨傘のしたに
美しい白鳥が首をのばしていて
そのそばを火を吹く車が走っていく


* 火車--中国語で汽車のこと

 何かと出会う。あるいは人と出会う。そのとき、かならずわけのわからないものがある。自分の知らないことがある。そのことに対して、こころを開いて行けるかどうか。つまり、自分を捨てて、相手の方に身を寄せていく。そのとき、自分がどうなってもいい、という感じで、相手にすべてをまかせてしまう。--この瞬間を「愛」と呼んでいいと思うが、財部は、相手の(他者の)の「美」に触れた瞬間、その相手を(他者)を心底愛することができる力を持った人である。そう思った。

 財部のところに一通の手紙が届く。その手紙には樟のことが書いてある。その描写はそれ自体で美しいが、書いた人(彼)は自分のことばには満足していない。そして、自分を満足させるために樟を見にはるばると汽車に乗って古い村まで行く。--手紙に、そう書いてある。
 それを読んだ瞬間、財部には、美しい美しい風景が見える。

大きな雨傘のしたに
美しい白鳥が首をのばしていて
そのそばを火を吹く車が走っていく

 手紙を読んだために、ここには不思議なことが起きている。「火車」は中国語で汽車である、と財部自身注釈で書いているように、それが「火の車」ではなく「汽車」であることを知っている。けれども、汽車ではなく、火を吹く車が走っていく。その「幻」を財部は見る。
 この「幻」。火を吹く車が一番の幻だが、雨傘も、白鳥も、白鳥の首をのばした姿もまた幻である。幻であるけれど、その幻を見る力が「愛」なのだ。
 古びた樟(老いた樟)を見たことがある人ならたいていはその姿が想像できる。たいてい、楠の幹はやわらかく捻じれている。それはたしかに白鳥の首のようにやわらかくカーブしている。そして、やわらかいけれど、樹皮は硬い。恐竜のうろこという比喩はぴったりという感じがする。大きく広がった全体は雨傘にも見えるだろう。
 彼が書いてきた手紙から、だれもが自分自身の見た樟を思い出すことができる。
 だが、それは彼がほんとうに見てきた樟ではない。だから彼はその樟を見に古い村落へ汽車に乗って行く--と手紙を書いてきた。
 その彼の、樟に対する「愛」。それが、そのまま財部を乗っ取る。その「愛」に飲み込まれてしまうことを財部は恐れてはいない。むしろ、その「愛」にはげまされるようにして、財部は自分自身の「知識」を捨てて、存在しないもの、「知識」を超越する「幻」をみる。普通の汽車じゃ、つまらない。立派な樟。雨傘であり、白鳥であり、やわらかくカーブした首である樟。それにふさわしのは「火を吹く車」。その赤い炎。
 「幻」を、より美しいものにするために、財部は、いわば「知識」を捨てて、狂って見せる。自分が自分でなくなって見せる。「火車が火を噴く車だって? 中国語を知らないの飼い? 汽車のことだよ、ばかじゃないのか」という批判を受け入れる覚悟をして、木を見るために、火を噴く車を走らせて出かけるなんてかっこいい、と言ってのける。そうやって、彼の、樟に対する「愛」に向き合う。彼を、「かっこいい」男にしてしまう。

 これは一種の相聞歌である。前半の3連が彼からの歌。最後の3行が財部からの答え。「私も、その火を噴く車で、猛スピードで空間を超えて、古い村、その樟を見に行きたい。連れて行って」。そう告げている。

 とても美しい。





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