詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川逸子「来た 来た」

2008-07-29 13:31:00 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川逸子「来た 来た」(「兆」138 、2008年06月10日発行)

 新しいことばは、どうやって「詩」になるか。石川逸子の作品には、いまの、そしていつまで存在するのかわからないことばが登場する。

来た
来た 来た
チンコンカンと書留で
死への督促状
後期高齢者医療証が

日の光にすかしてみると
あぶり出てくる文字
「汝 本来ならば 即刻 深山に運びて
谷底に突き落とし カラスに食わせる年齢なれど
格別のお慈悲をもって 現在地にとどめ置き
医療費等補助おこなうもの也
芳恩を謝し 一刻も早く黄泉の国へ向かうべく
用意相整えるよう申し渡すもの也」

ハハアッ と平伏
横を向いてペロリと舌を出す
なかなか食えない じじばば ではあるのだ
と 木々をゆらす 歌あり
(いくつになろうと 心は乙女 ホイホイ
 白髪になろうと 心は少年 ホイホイ)

歌に連れて 一陣の突風吹き抜け
終ってみれば
アリャアリャ 後期高齢者の文字が
光輝高嶺者に変わっていた

 最後の2行。「文字」(ことば)が「変わっていた」。「ことば」を「かえる」ことが詩である。本来の「意味」を剥奪し、違う「意味」にしてしまう。詩は、その「かわる」運動、「かえる」運動のなかにある。
 「かわる」(かえる)ために、石川は「うば捨て山」を通り、「歌」を通る。「通る」とはいうものの、それにどっぷりひたって、それに染まってしまうわけではない。どこかで「わたし」を守りながら、通る。

横を向いてペロリと舌を出す

 この「横を向いて」に、石川の「思想」が凝縮している。どんなときにも「横」を向ける。「横」に自分をはみ出させる。そして、そのはみ出した部分で生きていく。「ペロリと舌を出す」は、そういう「知恵」の具体的な、肉体的な、「思想」の行動である。
 そして、この行動・知恵は石川が独自に編み出したものではなく、「うば捨て山」がそうであるように、庶民の歴史のなかで形成されてきたものである。石川は、そういう歴史・時間を、他人と簡単に共有できる時間をとりこみながら、いまのことば、うさんくさいことばを、別のことばに変える。そうやって、笑い飛ばす。笑い飛ばしたからといって、「制度」がなくなるわけではないかもしれない。けれども、笑い飛ばすことで、精神は解放される。新しくよみがえることができる。

 独自のことばを探し出すのも大切だが、歴史・時間を耕して、そこから新しくことばをひろいだす、ことばとともにあった暮らしの「知恵」(庶民の「思想」)を掬い出し、磨きをかける。
 笑いのなかに、小さな種がある。「知恵」がある。「思想」がある。それは、いまはまだ小さな種だが、きっと大きくなる。



定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする