松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」、長嶋南子「散歩」(「すてむ」41、2008年07月25日発行)
松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」は、いのちが生々しい。その書き出し。
「喉」を「声」、あるいは「ことば」と置き換えると、この作品の伝えようとしている「意味」はわかりやすくなるかもしれない。しかし、「声」「ことば」では松岡が感じた生々しさはつたわらないのだ。「声」「ことば」に反応して動くのは、意識である。頭である。意識、頭も大切なものではあるけれど、松岡は、意識、頭をつつみこんで存在する肉体そのもを感じている。
「声」「ことば」は他者によって共有される。複数の人間がひとつの「声」を、ひとつの「ことば」を共有することができる。共有は、この場合、力そのものになる。「主張」は共有されることで、集団の「意志」になる。
ところが肉体は共有できない。人間はそれぞれが肉体をもっていて、それはそのひとだけが占有できるものである。そして、一回かぎりのものである。
松岡は、「声」や「ことば」が否定されたのではなく、ひとりの人間の肉体そのものが否定されたと感じる。そのときの、「喉」を感じている。自分の肉体のうちにではなく、
この距離感の正直さ。そのことに、私は、とても感動した。最初から一体感があるのではなく、少し距離がある。そして、その「すぐそば」という距離が、肉体そのものをはっきり感じさせる。そうなのだ。一体感ではだめなのだ。一体感ではなく、一体ではないがゆえに、感じる「他人」、その生々しい肉体。一体ではないと感じるがゆえに、他者に対する尊敬、畏怖というものが生まれる。ここには正直な人間だけがつかみとることのできるいのちの重さがある。
この1行目の、読点「、」による、ぶつぶつとした途切れ。一種の断絶というか、不連続性。不連続であることによって、連続を誘い出す意識の動き。ほんとうに正直な感覚だ。
この正直さがあって、
の一体感が動きだす。
さて、だれの「喉」なのか。そのことは、「すてむ」で松岡の詩を読んで確かめてください。
*
長嶋南子「散歩」は、「わたし」の「裏側」を思い返す詩である。散歩の日々。家々の裏側が見える遊歩道を歩く。裏側に積み重ねられたさまざまなもの。そこには「表」からは見えない「歴史」がある。と、書くと、とたんに「意味」が立ち上がってしまう。この「意味」を長嶋は軽やかに蹴飛ばしている。
ここには肉体だけになった「わたし」がいる。「意味」なんか、関係ない。「意味」戸は、この場合、「わたし」と「他人」との関係である。ひとは、他人との「関係」によって、社会のなかである「意味」をになわされる。そして「意味」によって、「わたし」は傷つけられる。逆もある、かもしれないけれど。でも、いまは「仕事をやめた」ので、そういう「意味」から解放されている。「意味」はどうでもいい。大切なのは、「肉体」、ここにこうして生きているいのち。
ああ、とても気持ちがいいことばだ。
「いいこと」というのは「他人に対してのいいこと」ではない。「わたし」にとって「いいこと」をたくさんしてきた。そうなのだ。「わたし」を大切にしてこなかったら、肉体は「いい味」をためこむことはできないのだ。
よその夫に会うことも、友達にねたまれることも、なにもかもが「いいこと」。長嶋を豊かにする何かであった。そんなふうにすべてを受け入れる。そのとき「いい味」の肉体そのものが残る。そんな肉体だけを羊が食べる。
でも、羊って何?
ことばでは説明できない。長嶋のように「いいこと」をたくさんすれば、自然に、そのひとのまえに姿をあらわす何かである。「意味」なんか気にしない、ただ目の前にあるものを食べる存在である。それは人間を超越している。だから、説明はできない。その説明のできないものと、長嶋は向き合って、幸福を感じている。そこに、「意味」ではなく、肉体の幸福、愉悦がある。
いいなあ、この詩。
松岡政則「辺地(へち)の夕まぐれ」は、いのちが生々しい。その書き出し。
不意の、喉、
誰かの喉を
すぐそばに感じる
何も語らない喉を
いいやおのれが詰まって語ろうにも語れない喉を
その顫えているのを確かに感じる
喉は行路病者のそれだろうか
道ばたのイタチガヤ、ネズミノオ、
喉、は誰なのか
「喉」を「声」、あるいは「ことば」と置き換えると、この作品の伝えようとしている「意味」はわかりやすくなるかもしれない。しかし、「声」「ことば」では松岡が感じた生々しさはつたわらないのだ。「声」「ことば」に反応して動くのは、意識である。頭である。意識、頭も大切なものではあるけれど、松岡は、意識、頭をつつみこんで存在する肉体そのもを感じている。
「声」「ことば」は他者によって共有される。複数の人間がひとつの「声」を、ひとつの「ことば」を共有することができる。共有は、この場合、力そのものになる。「主張」は共有されることで、集団の「意志」になる。
ところが肉体は共有できない。人間はそれぞれが肉体をもっていて、それはそのひとだけが占有できるものである。そして、一回かぎりのものである。
松岡は、「声」や「ことば」が否定されたのではなく、ひとりの人間の肉体そのものが否定されたと感じる。そのときの、「喉」を感じている。自分の肉体のうちにではなく、
すぐそばに感じる
この距離感の正直さ。そのことに、私は、とても感動した。最初から一体感があるのではなく、少し距離がある。そして、その「すぐそば」という距離が、肉体そのものをはっきり感じさせる。そうなのだ。一体感ではだめなのだ。一体感ではなく、一体ではないがゆえに、感じる「他人」、その生々しい肉体。一体ではないと感じるがゆえに、他者に対する尊敬、畏怖というものが生まれる。ここには正直な人間だけがつかみとることのできるいのちの重さがある。
不意の、喉、
この1行目の、読点「、」による、ぶつぶつとした途切れ。一種の断絶というか、不連続性。不連続であることによって、連続を誘い出す意識の動き。ほんとうに正直な感覚だ。
この正直さがあって、
いいやおのれが詰まって語ろうにも語れない喉を
その顫えているのを確かに感じる
の一体感が動きだす。
さて、だれの「喉」なのか。そのことは、「すてむ」で松岡の詩を読んで確かめてください。
*
長嶋南子「散歩」は、「わたし」の「裏側」を思い返す詩である。散歩の日々。家々の裏側が見える遊歩道を歩く。裏側に積み重ねられたさまざまなもの。そこには「表」からは見えない「歴史」がある。と、書くと、とたんに「意味」が立ち上がってしまう。この「意味」を長嶋は軽やかに蹴飛ばしている。
仕事をやめた
まいにち散歩するしかない
家々の裏側沿いの遊歩道を歩いている
どこの家にも裏側はある
積み重ねられている
箱や植木鉢 こわれた自転車 たくさんの空きビン
すきまに咲いている
どくだみ ひめおどりこそう いぬのふぐり
羊がつながれて草を食べている
歩き疲れて草の上にねころぶ
わたしの裏側に陽があたる
仕事のかえりよその夫に
こっそり会っていた
友だちはねたみながらほめたおし
親を捨て
生まれなかった子の年をかぞえ
羊がわたしのから他を食べはじめる
草食なのにね
羊はおいしそうに食べている
いいことをたくさんしてきたので
わたしのからだは味がいい
いぬのふぐり
風がわたしのからだを
吹きぬけていく
いぬのふぐり
ここには肉体だけになった「わたし」がいる。「意味」なんか、関係ない。「意味」戸は、この場合、「わたし」と「他人」との関係である。ひとは、他人との「関係」によって、社会のなかである「意味」をになわされる。そして「意味」によって、「わたし」は傷つけられる。逆もある、かもしれないけれど。でも、いまは「仕事をやめた」ので、そういう「意味」から解放されている。「意味」はどうでもいい。大切なのは、「肉体」、ここにこうして生きているいのち。
いいことをたくさんしてきたので
わたしのからだは味がいい
ああ、とても気持ちがいいことばだ。
「いいこと」というのは「他人に対してのいいこと」ではない。「わたし」にとって「いいこと」をたくさんしてきた。そうなのだ。「わたし」を大切にしてこなかったら、肉体は「いい味」をためこむことはできないのだ。
よその夫に会うことも、友達にねたまれることも、なにもかもが「いいこと」。長嶋を豊かにする何かであった。そんなふうにすべてを受け入れる。そのとき「いい味」の肉体そのものが残る。そんな肉体だけを羊が食べる。
でも、羊って何?
ことばでは説明できない。長嶋のように「いいこと」をたくさんすれば、自然に、そのひとのまえに姿をあらわす何かである。「意味」なんか気にしない、ただ目の前にあるものを食べる存在である。それは人間を超越している。だから、説明はできない。その説明のできないものと、長嶋は向き合って、幸福を感じている。そこに、「意味」ではなく、肉体の幸福、愉悦がある。
いいなあ、この詩。
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