詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮崎駿監督「崖の上のポニョ」(★★)

2008-07-30 08:57:25 | 詩集
 私は宮崎駿のファンではない。「もののけ姫」以前の作品は見ていない。だから、見当違いの見方をしているかもしれないが、この作品はとてもつまらない。水中のシーンは美しい。出だしのファンタジックな世界もいいが、津波(?)に覆い尽くされたあとの街の風景がとてもいい。洗濯物が風になびく(水になびく?)シーンは、ほーっと溜め息が洩れるくらいである。しかし、つまらない。
 5歳の少年がおもちゃの舟(ろうそくを動力に動く)で母を探しにゆくシーンも、童心を刺激する。しかし、つまらない。
 原因はひとつである。
 5歳の少年が「海」に対して畏れを抱いていない。「海」の世界に驚嘆していない。少年は陸にいて、「海」の表面を見ているだけである。そして、また、少年は「海」に引き込まれて行かない。「海」のなかでいったい何が起きているのか。それを知らない。陸の上の知っている世界だけて生きている。おもちゃの舟も、それは陸のつづき、家のつづきである。5歳だからしょうがないといえばとしょうがないのかもしれないが、家出をしないこどもはつまらない。
 家出をして、見知らぬ世界をのぞく。それはほんとうは「家」とつながっているのだけれど、家でした瞬間から「家」が消えるので、違った姿をみせはじめるのである。そういう瞬間の、恐怖、どきどきした感じがこの映画にはまったくない。どきどきがないから、わくわくもない。
 視点を「ぽにょ」に移してみても同じである。「ぽにょ」は家出をする。家出し、好きになった少年・そうすけを追いかける。しかし、その家では、父親がわりの科学者と母が見守っている。見守るだけではなく、その家出が完全なものになるよう手助けをする。「見知らぬ世界」は「見知らぬ世界」だけがもっている不思議な力を発揮しない。主人公をこわがらせながら、同時に勇気を与える、という体験をさせない。「見知らぬ力」に対して懇親の力をふりしぼり、こどもは成長する。それが冒険というものだが、この映画には、それがまったくない。
 それに、この映画の少年と少女(人魚)は、ちっとも弱くない。少年は5歳なのにモールス信号が発信することも、受け取ることもできる。おもちゃの舟とはいえ、その動力の原理も知っている。少女の方には「魔法」をつかえる力がある。なんだって解決できてしまうのだ。
 少年も少女も冒険のしようがない。だから、興奮もしない。
 5歳の少年と少女の恋愛もつまらない。恋愛というのは、「邪魔」があってはじめて燃え盛るものである。これは大人もこどもも同じはずだ。少年と少女の恋愛を、この映画のなかの最大のパワーをもった海の女王が邪魔すれば、それなりにおもしろいことは起きたかもしれないが、じゃまするどころか、その成就を応援してしまう。少年の母親をさえ説得してしまう。
 これでは恋愛もありえない。

 この映画には、ようするに主人公はいないのである。観客が一体化してしまう主人公、あ、こんな冒険がしてみたいと感じさせる主人公がいないのである。
 この映画に存在するのは、アニメの技術だけである。たしかにいくつもの表情の水を描きわける技術はすばらしい。感心する。しかし、それは宮崎駿を初めとするスタッフの技術への感心である。そんなものが感動の全面に出てくるような映画は、観客向けの映画ではなく、映画をつくるひとのための映画である。「私はここまでアニメで表現できます」とおしつけがましく言われても、楽しくもなんともない。



 宮崎駿作品を見るなら、やっぱり「もののけ姫」。
 夏祭の真っ最中に、夜の部を見た。こどもたちがたくさん。満席だった。
 映画が終わる、クレジットが流れはじめると席を立つ客が多いのに、この映画では誰一人席を立たない。こどもさえも席を立とうとしない。
 観客みんなが打ちのめされた。
 感動で席を立てないのである。
この一瞬は、映画以上に感動的だった。


もののけ姫

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