詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北沢栄・紫圭子『ナショナル・セキュリティ』

2008-07-21 09:13:21 | 詩集
ナショナル・セキュリティ―連詩
北沢 栄,紫 圭子
思潮社、2008年06月30日発行

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 それぞれの詩に日付が入っている。北沢栄と紫圭子が交互に書かいている。一種の対話である。「ナショナル・セキュリティ」というタイトルが象徴的だが、こうした対話の場合、どうしても「流通言語」にひきずられてしまう。すでに存在する「意味」にひっぱられてしまう。そして、そこに一種の共通概念があるために、何か、対話が成り立ったような気がしてしまう。ほんとうに対話があったのか、ことばをかわすことで、北沢と紫が北沢ではない人間、紫ではない人間になってしまったのか。--対話とは、相手と向き合うことで自分をつくりかえ、自分自身でなくなってしまうことである。(と、プラトンが大好きな私は考えている。)
 どうも、そんな感じはしない。
 「世界」について、私はこれだけ「知識」を持っている、とい主張が随所に出てくる。「世界」についていろいろ知っていることは重要なことではあるけれど、「知識」の疲労は「対話」とはいわないのではないか、と私は思う。

 「対話」がどうしても「意味」に流れてしまうのに対して、紫がいっしょうけんめい抵抗している。その部分が、詩として輝いている。

雨はちぎれた夢のしっぽ
そっと戸口をたたく
雨は
戸口を守る神さまだろうか
                 (36ページ)

わたし スーパーで買い物する
自分の姿をモニターテレビに映して
ポーズする
(鏡って植物的ね
      (谷内注、「鏡」には「モニター」とルビがついている)
                  (66ページ)

 詩集の「帯」にも引用されているが、66ページの4行は美しい。特に、「(鏡って植物的ね」と開かれた状態でほうりだされたことばが美しい。
 なんの説明もない。説明のしようがないのである。ことばがふいにやってきて、紫の肉体を切り開いてしまったのである。
 こうしたことばに出会ったとき、そこで対話するというのは、それまでの自分を完全に捨て去らないとできない。そういう対応を、残念ながら、北沢はしていない。



わたし スーパーで買い物する
自分の姿をモニターテレビに映して
ポーズする
(鏡って植物的ね

 この4行で、紫は何が書きたかったのか。--ということをつきつめていくのは、実は、詩を読んでいて、私はそんなに大切なことではない。それは詩を読むときの私の姿勢ではない。紫の書きたかったことを無視して、そこから私自身の考えを見つめなおす。そういうことが、私にとっては詩を読むということだ。
 紫の4行は、それに先行する「愛人」「水仙」ということばが引き起こす乱気流のようなものによって生まれている。「水仙」とはもちろん「ナルシス」のことである。自己愛の象徴である。
 何かを愛する。その結果、自分が自分ではなくなってしまう。(ナルシスがその典型。)それが人間の欲望である。
 これに対して「鏡」はなんだろう。どういうものだろう。

(鏡って植物的ね

 このことばを発したとき(このことばがやってきたとき)、紫はどんなふうに変質したのか。紫ではなくなったのか。
 紫は、人間ではなく、モニターになってしまっている。モニターのなかにいる紫が紫であって、ポーズをとっている紫は紫ではなくなっている。一種の逆転が、ここにある。そして、モニターに欲望があるとすれば、そんなふうにして他人をモニターにしてしまうという欲望である。そこには、たぶん、いままでのことばでは定義できないような、不思議なパワー、エネルギーがある。
 「世界」で何かが起きているとすれば、そういうモニターの引き起こす錯乱である。

 それはほんとうは「植物的」ではないかもしれない。たぶん、「植物的」と呼ばれるものの対極にある。それでも、それを紫は「植物的」と呼ぶ。
 そこに何とも言えない「祈り」あるいは「絶望」のようなものを感じる。めまいのようなものを感じる。死の喜びのようなものを感じる。エロスを感じる。矛盾した何もかもを感じる。

 紫はこれから何を書いていくのか。ふいに、新しい、次の詩を読みたくなった。紫の変化を追ってみたくなった。







受胎告知
紫 圭子
思潮社

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