錯覚しなければ三角 みづ紀思潮社、2008年05月31日発行このアイテムの詳細を見る |
「うしないつづける」の次の部分を私は何度も読み直した。
大勢のわたし自身をわたしたちが
わたしを囲んで
「大勢のわたし自身をわたしたちが/囲んで」ではなく「わたしを」囲んで。補語が繰り返される。繰り返される「わたし」に、「わたし」と繰り返さなければならない切実な悲しみを感じた。繰り返しても繰り返しても、たどりつけない「わたし」を感じた。たどりつけないならば「わたし」と感じなくていいのかもしれない。もしかしたら存在しないのかもしれない。しかし、存在を三角は感じる。感じるのに、たどりつけない。感じだけが存在して「わたし」が存在しない。そのときの、感じることの「かなしみ」。それは「悲しみ」であると同時に「愛しみ」なのだろう。悲しみに愛がまじるがゆえに、それは切実なのである。痛切なのである。
大勢のわたし自身をわたしたちが
わたしを囲んで
かごめ
かごめ
を、はじめる
言い当てたわたしを
わたしは食して
もう行かれない場所には
赤い丸をつけるのだった
「わたし」を「食して」、「わたし」を消していく。その「わたし」がいた「場所」をひとつひとつ消してゆく。「わたし」を減らすことで、「わたし」にたどりつこうとする。「1」としての「わたし」。「わたし」がまぎれもなく「1」であることを確かめたくて、三角は「わたし」を消してゆく。「わたしたち」を消してゆく。
あなたたち
わたしじゃない
にせものよ
もう少しで
わたしはわたしを取り戻す
でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて
「あなたたち」とは「わたしたち」を「わたし」から見つめなおした呼称である。「わたしたち」は「わたし」ではない。「わたし」ではない「わたしたち」を消してゆく。そうすることで、「わたしはわたしを取り戻す」。
この「取り戻す」という意識のなかに三角の「思想」がある。「1」になることを「取り戻す」。「消してゆく」(食してしまう)ことと「取り戻す」ことが、このとき一致する。
でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて
「欠落していて」、それが、どういうことになるのか。このことを、三角は、書けない。どう書いていいか、わからない。この、わからないものを、書こうとして、ことばはクライマックスに達する。
最後のピースが見当たらない
おうそしてきの準備がなされていく
待って
もう少しで
わたし息を吹き返すの
「最後のピース」とは「わたしたち」の「最後のわたし」だろう。それを消してしまえば、「わたし」は「1」になる。だが、その「最後のわたし」がみつからないので「わたし」は「わたし」を取り戻せない。
ここには、一種の矛盾がある。
「最後のわたし」がみつからないなら、「わたしたち」を消そうとしている「わたし」こそが「最後のわたし」(最後のピース)になるだろう。論理的には、たしかにそうなるのだが、「感じ」はそのことに納得しない。「最後のわたし」がいない。「わたし」が「わたし」になるための、消してしまわなければならない「最後のわたし」がいない。欠落している。だから「わたし」は「わたし」になれない。そこには「わたし」しかいないのに「わたし」になれない。「わたし」を取り戻せない。
ぽっかりあいた虚無のようなもの。そのどこまでもはてしない空虚さが、「わたし」にぴったりくっついてはなれない。どう引き剥がしていいのかわからない。無理やり引き剥がせば、「わたし」を傷つける。傷つけてでも、引き剥がしたい。
ここから、自傷の愛、自傷の自己確認の「かなしみ」は、はじまる。その「はじまり」の場で、三角は苦悩する。叫ぶ。泣く。それが三角の詩である。思想である。
「わたし」と「わたしたち」のぴったりくっつくことで生まれる亀裂、虚無。それを三角は別のことばでも書いている。「きみの名は」の書き出し。
父親/母親に犯された夢をみてしまった
彼/彼女はわらって次の合図を待った
「父親/母親」は「わたし/わたしたち」である。「彼/彼女」は「わたし/わたしたち」である。「わたし」と「わたしたち」が同じ存在ではないのと同じように、「父親」と「母親」は同一のものではない。「彼」と「彼女」は同一のものではない。しかし、それは一方を消してしまえば、たとえば「親」という存在に、「人間」という存在になる。この場合、「消す」とは完全な融合と同じである。
ほんとうは「融合」(一体)というものを探さなければならないのかもしれない。
だが、三角は「融合」ではなく、あくまで、対象を「消す」(食する、内部に取り込み消す)ことを、彼女自身のことばの運動の方向性として追い求めている。
ここにはどうしようもない「矛盾」がある。
そしてこの「矛盾」というのは「間違っている」という意味ではない。
私はとりあえず「矛盾」と書いてしまうが、それは私の論理では「矛盾」としか言えないということであって、それを「矛盾」ということばではなく、もっと別のことばでとらえなおすことのできる「次元」がどこかにあるのだ。
その「次元」は三角の「感じ」のなかにある。まだ、「感じ」のなかにしかない。それを、三角は探している。追い求めている。そして、それはまだことばにはならない。だから、はかなく、かなしく、切実な、ゆらぎの苦悩としてあらわれてきてしまう。
だが、この「矛盾」はいつか必ず乗り越えられ、もっと強い「思想」になる。「思想」は常に「矛盾」を超えたときに、その鮮明な姿をあらわす。
いま、ここにあるのは、そういう「思想」の予感である。
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