詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビレ・アウグスト監督「マンデラの名もない看守」

2008-07-24 09:23:51 | 映画
監督 ビレ・アウグスト 出演 ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイス・バード、ダイアン・クルーガー

 小説、詩を批評するときに「文体のしっかりした」という表現をつかうことがある。映像についても同じことばをつかいたい。ビレ・アウグスト監督の作品は「映像の文体」がとても強固である。しっかりしている。ゆるぎがない。
 あるシーンが特別美しいわけではない。一瞬の映像美によって引き込む、という世界ではない。そこにあるものを、しっかりと映像にする力がある。そして、その映像は対象を写し取るだけではなく、「空気」を写し取る。それが美しい。
 冒頭、主人公がマンデラのいる刑務所へ向かう。その船旅。とてもひんやりした空気が流れている。鳥瞰で撮られた島の姿もひんやりしている。何か、人間のぬくもりがない。この空気が、最後には、温かいものにかわる。マンデラが刑務所から出てくる。それを迎える人々。人々にこたえ、手をあげるマンデラ。そのマンデラから、温かいものがあふれだす。空気がかわる。
 そういう変化を、この映画は、とてもしっかりした、ゆるぎがないという表現しか私は思いつかないが、ほんとうに安定感のある映像でとらえている。

 私がもっともひかれたのは、マンデラが最初に登場するシーンだ。その目だ。デニス・ヘイスバートの目は非常に透明だ。ただ理想だけをしっかりみつめている。ほかのものは目に入らない。そういう純粋な透明さがある。その目の輝きに、ジョセフ・ファインズは驚く。黒人のテロリスト、凶悪な犯罪者という印象がしないからである。
 この二つの目、二つの目の違いを、カメラはどんなふうにとらえるか。どんなふうに「空気」として描き出すか。
 ジョセフ・ファインズは懲罰房にいるマンデラを監視窓からのぞく。その目は鉄の窓といっしょに映し出される。スクリーンには、白い鉄の扉のなかの「窓」(のぞき穴)が映し出されており、その「窓」の向こうにジョセフ・ファインズの目だけが見える。顔の全体は見えない。もちろん姿も見えない。ジョセフ・ファインズは「のぞいて」いるのだが、この「のぞく」という行為は、自分を守りながら何かを見るということである。ここに、マンデラと看守、当時の黒人と白人の意識が象徴されている。暗示されている。
 鉄の扉はマンデラを閉じ込めるものであるけれど、それは単に閉じ込めるのではなく、マンデラが看守を襲わないようにするものである。鉄の扉によって守られているのは看守なのである。こういうことは看守には意識されていない。看守はマンデラを監禁しているという意識しかない。その意識されていない事実(「空気」のようなもの)を、カメラは一瞬にしてとらえる。堅く堅く、自己防御している看守、そして、白人たち。不安におびえる目。不安を隠すために、張りめぐらした硬い扉。
 マンデラたちからみれば、白人たち、看守たちは、ようするに硬い防御の中にいて、身の安全を確保しながら、黒人を見ている人間なのである。
 一方、マンデラの目はどうか。それはスクリーン全体に映し出される。なんの防御もない。無防備に、自分をのぞく看守をみつめかえす。顔は見えない。姿は見えない。ただ、目だけを見つめ返す。
 その目の純粋さ。透明さ。野蛮とは無縁の、崇高な輝き。
 それが看守のこころの何かを動かしたことが、この瞬間にわかる。
 マンデラは看守を見つめ返したあと、最初の姿勢に戻る。看守に背を向けて、独房の窓の方を向く。看守からは、もうマンデラの背中しか見えない。このシーンも美しい。暗示的だ。象徴的だ。看守は、マンデラが何を見ているか知らないのである。同じ視点で現実を見つめていないのである。看守が見ているのはマンデラの背中であって、マンデラの透明な目が何を見つめているのか知らないのである。

 この映画はマンデラを描いているというよりも、マンデラが見つめているものを自分の目で見つめるようになるまでの過程を描いた映画である。マンデラが投獄・監禁から開放されるまでを描いたというより、マンデラを監禁していた人間が、監禁、あるいは差別の誤りに気づき、魂を取り戻す過程を描いた映画である。
 硬い扉で防御するのをやめ、こころを開いて行くまでの映画である。

 象徴的なシーンがもうひとつある。
 マンデラと看守が棒術で戦うシーン。二人がもっているのは同じ2本の棒である。対等である。あとは、それぞれの肉体と、棒術の技術。童心に帰って、二人は戦う。戦うといっても、それはプレイである。ほんとうに相手を叩きのめすためではない。自分に何ができるかを発見するためのプレイである。勝っても、負けても、そのことで他人より自分が優れているとは思わない。劣っているとは思わない。たしかに勝った方はすぐれているが、それは武術がすぐれているということであって、人間性としてすぐれているということではない。叩きのめすことはできるが叩きのめさない。危害を加えることはできるが加えない。相手を傷つけずに、同時に力を競い、互いをたたえあう。そのとき、すぐれているのは勝った方でも負けた方でもなく、互いをたたえあえる二人なのである。
 囚人と看守。対立する二人が、こころを開いて一体になる一瞬が、そこに象徴されている。

 こうした看守が存在しこことが、たしかにマンデラのいのちを守ったかもしれない。マンデラの理想を、そのまま体現してくれる白人の存在がマンデラの理想を守ったかもしれない。
 そんなこころの交流を、静かに静かに、この映画は伝えてくる。二人の間に存在する「空気」の手触りとして伝えてくる。棒術で戦うシーンは、戦いなのに、暴力的なところがまったくない。二人が自分たちの肉体の動きを楽しんでいる、その喜びだけが、きらきらは伝わってくる。

 もうひとつ、胸があつくなるシーン。
 マンデラが開放される日。二人がわかれる日。看守はマンデラに「お守り」を渡す。それは看守が幼いころいっしょに遊んだ黒人の少年からもらった「しっぽのお守り」である。それは、幼なじみの友達に再会して、互いが元気で生きているのを確認して喜び、「このお守りのおかげで元気だよ。こんどはきみに上げるよ」というような感じだ。このとき、幼なじみは、ほんとうに親友になる。そんなふうにして、マンデラと看守は親友になるのだ。二人は幼なじみではないが、この瞬間、親友であり、幼なじみでもあるのだ。
 看守の目は、このとき、きっと最初のマンデラのように透明に輝いているだろう。

 純粋な目と目。その最後の一瞬から、世界が広がる。あたたかい空気が、刑務所の壁を超え、世界へと広がっていく。

 これは、人間の美しさを描いた、まれにみる傑作である。



ペレ

東北新社

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