是枝裕和監督「歩いても 歩いても」(2)
「家」のおもしろさがいたることろに出て来る。この映画のメインテーマは「家」というより「家族」なのだろうけれど、「家族」の舞台となる「家」そのものも非常におもしろい。
玄関がある。硝子戸である。硝子戸ではあるけれど、透明ではない。縦に波が入っている。外から家のなかは見えない。一方、家のなかから外も見えない。しかし、家のなかからは外の様子は、外から内部をうかがうよりははっきり見える。外と内の明るさの違いで、影の見え方が違う。誰かがきた時、その影は内部からははっきり見ることができる。そういう構造につくられた家である。このつくりには、マンションや何かの鉄の扉とは違った「思想」がある。「家」の内と外を区別する「思想」がある。外部と接する時の「思想」がある。内部は隠したまま、外部のことを知る、という「思想」がある。そして、その「思想」はたとえばマンションのドアの「覗き穴」(?)にもあるのだけれど、「防御」の度合い、というか、印象が違う。マンションのドア、その「覗き穴」は、ドアの外のひとに「あ、今、覗かれている、自分が誰であるか確かめられている」といういんしょうがとても強くあるが、波ガラスのドアにはそういう印象がない。外を半分くらい受け入れている姿勢を出す--というところに、人間と人間のつきあいの「思想」がある。
どの「家」でもたいていは調理場(流し台)は窓に向かってつくられることが多い。古い家ならなおさらだ。(マンションはリビングに向かって流し台があるつくりもある。)そこには、自然の光を利用するという節約の精神もあるのかもしれないが、それ以上に、やはり自然を重視する「思想」があるのだと思う。電気代の節約というよりも、自然の光で野菜を、その他の素材を確かめるという「思想」。たとえばダイコンやニンジンのみずみずしさは自然の光の方がはっきりと浮かび上がらせることができる。つかう水の輝き(それが水道の水であっても)も、太陽の光にふれることで、いったん人工のものから自然のものに甦る。そういう印象がある。映画の冒頭に樹木希林とYOUが料理の下ごしらえにダイコンの皮をむき、ニンジンをそいでいるが、そのときの色は電燈の光の色ではなく、あくまで自然の太陽の光によって引き出される輝きである。その太陽の光の輝きが素材を引き立てる。料理をおいしくつくるという「思想」につながっていく。
「外」の取り込み方でおもしろいのは、玄関と縁側の関係にもあらわれている。玄関のドアはいつも閉ざされている。必要があるときのみ、それは開かれる。家に入る時、家から出て行く時。ところが縁側は違う。いつも開かれている。外と、つまり自然と接している。家のなかに自然を取り込む役割を果たしている。ここにも「家」の「思想」がある。人間は選んだ上で「家」のなかへ入れる。「家」のなかでも、玄関までのひと、玄関をあがり「家」の内部まで入れるひと。その区別がある。
これに対して、縁側は、ひとの出入りとは関係がない。縁側を利用して「家」に出入りするのは「家族」のみである。「家族」だけが許される「特権」がここにある。親密なものだけに許される「特権」。その「特権」を自然は共有している。光、風、時には蝶々も「家」の「家」へ自由に出入りする。(この蝶々の「侵入」は、映画では特別の「意味」をもって描かれるが、こうしたことが可能なのも「縁側」があるからである。)そういう自然が「家」の「内」と「外」をつなぎ、人間の感性をゆったりさせる。「内」でいざこざというか、しっくりこない何かがあったとき、ひとは、「家」の「内」から目を「外」へ、自然へ向ける。阿部寛が父との会話に嫌気がさして、「外」を眺める。原田芳雄が弔問にやってきた少年(すでに青年)に背を向けて庭を見つめる。いやなこと、気に食わないことがあったら、そのときの心を、そんなふうにして「自然」へ向けて開放する。家の「内」にためこまない。そういう「思想」、そういう「暮らしの知恵」が「縁側」にある。
この映画は、そういうものをとても自然に、暮らしそのものとしてきちんと描いている。人間が長い暮らしのなかで身につけてきた、ことばにならないような「思想」--つまり、マルクスだとかヘーゲルだとかカントだとか、あるいはドゥールーズだとかの、ことばことばしたことばで確立する「思想」とは違った「思想」をきちんと映像としてとらえている。
ことばではなく、暮らしそのものが鍛える「思想」。これは「長江哀歌」にとても美しい形で表現されていたが、この映画にも、それに通じるものがある。「家族」が勢ぞろいしたときのために、大きな座りテーブル(正式にはなんというのだろう)を2階から下ろして来る。そういうものを常に準備しているという「思想」。そのテーブルをきちんと磨く、磨いているという暮らしの「思想」。タンス、引き出し、そういうものの、埃をはらい磨き上げるという「思想」。ひとつひとつの家具の、調度の、使い込まれた色、つや、輝き。そういうものに含まれる「思想」。「内」を守るという「思想」。「内」を自分の暮らしにあわせ、快適にととのえるという「思想」。
この「内」の「思想」は、人間関係でも、しっかり描かれている。原田芳雄が浮気をしていた若い時代。樹木希林は原田が通いつめる女のアパートの下まで行った。こどもをつれて。そして、その窓の下で、原田が「ブルーライハト・ヨコハマ」を歌っているのを聞いた。その記憶を、樹木希林は彼女自身の内部にしっかり抱き留めている。同時に、そのときの歌、レコードをしっかり「家」の「内」にも残していて、ときおりそのレコードを聞いている。彼女は、そんなふうにして「内」を守った、維持してきた。
この映画は、ある意味では、「家」の「内」と「外」の関係を、樹木希林の「内」と「外」を重ね合わせる形で描いている。それぞれの当時人物にはそれぞれの「内」と「外」があり、それもきちんと描かれているが、とりわけ樹木希林の姿をとおして象徴的に描いている。長男の死の原因となった少年に対する憎しみ、「忘れてもらっちゃ困る」「うらむものがないだけに、よけい苦しい」というようなことば--「内」から噴出し、「内」を知っているもの(家族)に対してのみ許されることば、それを吐き出す一瞬。そこに凝縮する「内」と「外」。そういうものが、ほんとうに「家」の構造そのもの、「家」で暮らすことそのものの「思想」とぴったり重なる。
この映画はほんとうにおもしろい。「家」の内部の描写、光の描き方、使い込まれた調度の描写、さらには陸橋の裏側の錆などの描写に「長江哀歌」に通じるものを感じ、そのために「長江哀歌」が10年に1本の映画だとすれば、この映画は3年に1本、5年に1本の映画だと思ってしまったが(きのうは)、感想を書きつづけているうちに、この映画もまぎれもなく10年に1本の映画だと確信した。
ほんとうにすばらしい映画だ。
「家」のおもしろさがいたることろに出て来る。この映画のメインテーマは「家」というより「家族」なのだろうけれど、「家族」の舞台となる「家」そのものも非常におもしろい。
玄関がある。硝子戸である。硝子戸ではあるけれど、透明ではない。縦に波が入っている。外から家のなかは見えない。一方、家のなかから外も見えない。しかし、家のなかからは外の様子は、外から内部をうかがうよりははっきり見える。外と内の明るさの違いで、影の見え方が違う。誰かがきた時、その影は内部からははっきり見ることができる。そういう構造につくられた家である。このつくりには、マンションや何かの鉄の扉とは違った「思想」がある。「家」の内と外を区別する「思想」がある。外部と接する時の「思想」がある。内部は隠したまま、外部のことを知る、という「思想」がある。そして、その「思想」はたとえばマンションのドアの「覗き穴」(?)にもあるのだけれど、「防御」の度合い、というか、印象が違う。マンションのドア、その「覗き穴」は、ドアの外のひとに「あ、今、覗かれている、自分が誰であるか確かめられている」といういんしょうがとても強くあるが、波ガラスのドアにはそういう印象がない。外を半分くらい受け入れている姿勢を出す--というところに、人間と人間のつきあいの「思想」がある。
どの「家」でもたいていは調理場(流し台)は窓に向かってつくられることが多い。古い家ならなおさらだ。(マンションはリビングに向かって流し台があるつくりもある。)そこには、自然の光を利用するという節約の精神もあるのかもしれないが、それ以上に、やはり自然を重視する「思想」があるのだと思う。電気代の節約というよりも、自然の光で野菜を、その他の素材を確かめるという「思想」。たとえばダイコンやニンジンのみずみずしさは自然の光の方がはっきりと浮かび上がらせることができる。つかう水の輝き(それが水道の水であっても)も、太陽の光にふれることで、いったん人工のものから自然のものに甦る。そういう印象がある。映画の冒頭に樹木希林とYOUが料理の下ごしらえにダイコンの皮をむき、ニンジンをそいでいるが、そのときの色は電燈の光の色ではなく、あくまで自然の太陽の光によって引き出される輝きである。その太陽の光の輝きが素材を引き立てる。料理をおいしくつくるという「思想」につながっていく。
「外」の取り込み方でおもしろいのは、玄関と縁側の関係にもあらわれている。玄関のドアはいつも閉ざされている。必要があるときのみ、それは開かれる。家に入る時、家から出て行く時。ところが縁側は違う。いつも開かれている。外と、つまり自然と接している。家のなかに自然を取り込む役割を果たしている。ここにも「家」の「思想」がある。人間は選んだ上で「家」のなかへ入れる。「家」のなかでも、玄関までのひと、玄関をあがり「家」の内部まで入れるひと。その区別がある。
これに対して、縁側は、ひとの出入りとは関係がない。縁側を利用して「家」に出入りするのは「家族」のみである。「家族」だけが許される「特権」がここにある。親密なものだけに許される「特権」。その「特権」を自然は共有している。光、風、時には蝶々も「家」の「家」へ自由に出入りする。(この蝶々の「侵入」は、映画では特別の「意味」をもって描かれるが、こうしたことが可能なのも「縁側」があるからである。)そういう自然が「家」の「内」と「外」をつなぎ、人間の感性をゆったりさせる。「内」でいざこざというか、しっくりこない何かがあったとき、ひとは、「家」の「内」から目を「外」へ、自然へ向ける。阿部寛が父との会話に嫌気がさして、「外」を眺める。原田芳雄が弔問にやってきた少年(すでに青年)に背を向けて庭を見つめる。いやなこと、気に食わないことがあったら、そのときの心を、そんなふうにして「自然」へ向けて開放する。家の「内」にためこまない。そういう「思想」、そういう「暮らしの知恵」が「縁側」にある。
この映画は、そういうものをとても自然に、暮らしそのものとしてきちんと描いている。人間が長い暮らしのなかで身につけてきた、ことばにならないような「思想」--つまり、マルクスだとかヘーゲルだとかカントだとか、あるいはドゥールーズだとかの、ことばことばしたことばで確立する「思想」とは違った「思想」をきちんと映像としてとらえている。
ことばではなく、暮らしそのものが鍛える「思想」。これは「長江哀歌」にとても美しい形で表現されていたが、この映画にも、それに通じるものがある。「家族」が勢ぞろいしたときのために、大きな座りテーブル(正式にはなんというのだろう)を2階から下ろして来る。そういうものを常に準備しているという「思想」。そのテーブルをきちんと磨く、磨いているという暮らしの「思想」。タンス、引き出し、そういうものの、埃をはらい磨き上げるという「思想」。ひとつひとつの家具の、調度の、使い込まれた色、つや、輝き。そういうものに含まれる「思想」。「内」を守るという「思想」。「内」を自分の暮らしにあわせ、快適にととのえるという「思想」。
この「内」の「思想」は、人間関係でも、しっかり描かれている。原田芳雄が浮気をしていた若い時代。樹木希林は原田が通いつめる女のアパートの下まで行った。こどもをつれて。そして、その窓の下で、原田が「ブルーライハト・ヨコハマ」を歌っているのを聞いた。その記憶を、樹木希林は彼女自身の内部にしっかり抱き留めている。同時に、そのときの歌、レコードをしっかり「家」の「内」にも残していて、ときおりそのレコードを聞いている。彼女は、そんなふうにして「内」を守った、維持してきた。
この映画は、ある意味では、「家」の「内」と「外」の関係を、樹木希林の「内」と「外」を重ね合わせる形で描いている。それぞれの当時人物にはそれぞれの「内」と「外」があり、それもきちんと描かれているが、とりわけ樹木希林の姿をとおして象徴的に描いている。長男の死の原因となった少年に対する憎しみ、「忘れてもらっちゃ困る」「うらむものがないだけに、よけい苦しい」というようなことば--「内」から噴出し、「内」を知っているもの(家族)に対してのみ許されることば、それを吐き出す一瞬。そこに凝縮する「内」と「外」。そういうものが、ほんとうに「家」の構造そのもの、「家」で暮らすことそのものの「思想」とぴったり重なる。
この映画はほんとうにおもしろい。「家」の内部の描写、光の描き方、使い込まれた調度の描写、さらには陸橋の裏側の錆などの描写に「長江哀歌」に通じるものを感じ、そのために「長江哀歌」が10年に1本の映画だとすれば、この映画は3年に1本、5年に1本の映画だと思ってしまったが(きのうは)、感想を書きつづけているうちに、この映画もまぎれもなく10年に1本の映画だと確信した。
ほんとうにすばらしい映画だ。
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