詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『鉱石譜』(1)

2008-07-22 12:11:44 | 詩集
 高柳誠『鉱石譜』(1)(書肆山田、2008年07月20日発行)

 詩集を開いてすぐ私は一種のめまいを感じた。詩はことばでできている。そしてことばは文字で記される。あたりまえのことだが、その事実にはっとさせられた。高柳の詩集はことば、そして文字からできている。さらにいえば、その文字は「活字」からできている。その印象が強烈に襲ってくる。
 本は(本に限らずあらゆる出版物は)最近は「活字」をつかっていない。正確にいえば「活版活字」をつかっていない。きのう取り上げた北沢栄・紫圭子『ナショナル・セキュリティ』(思潮社)も「活版活字」ではない。コンピューターでつくられている。
 ところが書肆山田の方針なのだろうけれど、財部鳥子の『胡桃を割る人』も活版活字をつかっている。この高柳誠の詩集も同じである。
 不思議なことに、財部の詩集を読んだときは、それに気がつかなかった。それなのに高柳の詩集は開いた瞬間、強烈な印象で活字のエッジが目に飛び込んできた。活字と活字を、文字と文字を組み合わせ、枠でしっかりと固定化して組み上げていく。行間にはインテルがきっちりとおさまっている。その様子が、まぼろしのように、目の前に浮かび、あ、詩は、こういうことばからできている。鉛の(?)活字からできている。そのことをはっきりとは感じた。

 コンピューター製版と活字製版の大きな違いは、変更(修正)の簡便さ、難度の違いである。コンピューター製版は修正が簡単である。私のようなしろうとにでもできる。組みの変更もとしも簡単である。これも私のようなしろうとでもできる。活字製版はそんな具合にはいかない。熟練がいる。正確な技術がいる。

 高柳の詩は、そういう「技術」を要求しているのだ。高柳のことばは、コンピューター製版の簡便な文字、ことばではなく、ひとつひつとつ組み上げていく「物質」と「技術」の出会いを要求している。そのことが、詩集を開いた瞬間に、ぱっと肉眼を貫く。文字のエッジが(と先にも書いたが、正確な表現ではないかもしれない)、「頭」ではなく、肉体を刺激してくる。ことばを、その「意味」や「音楽」に触れる前に、肉眼にぶつかってくる。一瞬、目をそらしたくなるような、そして一瞬目をそらしたあと、今度は目を凝らしたくなるような印象がある。
 財部の詩集のときには感じなくて、高柳の詩集のとき、それを感じるのは、たぶん高柳のことばの方が「活版活字」「活版製版」を強く要求し、そこには不思議な格闘があるからだろう。格闘するもの同士が、格闘しながらも、互いをたたえあうような不思議な「愛」のようなものがあるからだろう。

 私の書いている感想は、これまで私が詩について書いてきた感想とまったく違っているかもしれない。私は、ことばがどこに書かれていようが、どんなふうに書かれていようが気にしない人間である。ことばを読んで、そのとき私のなかで動く何か。それだけが私の関心なので、1枚の噛みに手書きで書かれたものでも、あるいはコピーをノートに張り付けたものでも、それが私のなかで動きはじめればそれが詩であり、紙の質や活字の大きさなどにこだわっているひとの感覚がはっきりいって、よくわからなかった。単行本で読もが、全集で読もうが、文庫本で読もうが、ことばはことばであって、その意味や音楽がかわるわけではないからだ。
 高柳のこの詩集も、たとえばそれがコンピューター製版されていたとしても、その意味、その音楽にはなんのかわりもないだろう。全集におさめられても、文庫本になっても、それはかわらないだろう。
 だが、かわるものがあるのだ。
 ことばへの愛。活字、文字、余白。それが組みあわさって出来上がる「ことば」の世界への愛がかわる。高柳は心底、ことばを愛している。ことばを表す手段としての「活字」「活字製版」「紙への印刷」というものを愛している。ことばと、そのことばをつかって形成されてきたものを愛しているのだ。

 「憂愁のアンダンテ--Moonstone 月長石」の冒頭。

すみわたる紺碧のしじまのうちに
うかびあがるうすい青い球体
夜のかたい闇をつらぬいて
月光がななめにさしこみ
光がしたたり したたり
地表にあふれ みなぎり こぼれ
大気にふれて存在の核へと向かい
月のうす青い光がゆっくり凝り
酷薄にそぎ落とす月の光をあびて
水のきらめきを妖しく放って
正長石と曹長石との
うすい光を形成し

 「しじま」ということばは、今では、だれがつかうだろうか。日常はつかわない。けれども存在している。そういうことばに対する愛が高柳を動かしている。「夜のかたい闇をつらぬいて」や「大気にふれて存在の核へと向かい」という運動のなかに、高柳の、一種の「方向」があらわれているが、そういう運動よりも、ことばが出会いながらつくりあげるもの、ことばが何かをつくりあげようとするときの「愛」そのものが、高柳は好きなのである。ことばが何かをつくろうとして結びつき、ひとつになる瞬間の「愛」--それに同化したいという強い欲望がここにはある。
 ことばがことばと結びつき、何かをつくりあげる。そのつくりあげるを、高柳は「形成」と呼ぶ。引用した最後の行に出てくる。
 高柳は、ことばが「形成」するものが好きである。そして、その「形成」されたものは、「うすい光」ということばが象徴的だが、とても繊細である。そういう繊細なものを、繊細なまま、強固にする(矛盾だろうか--たしかに矛盾だからこそ、そこに「思想」がある)ために、活版製版のような、強固なものが必要なのだ。活版製版のような、強固な印象のあるものにことばを預け、その強固さを頼りにしながらことばを動かす必要があるのだ。





万象のメテオール
高柳 誠
思潮社

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