詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲垣瑞雄『半裸の日々』

2008-10-08 10:04:48 | 詩集
 不思議な静謐に満ちた一篇がある。「姫鱒の暦」。引きつけられた。その全行。

湖面がまくれ上がると一年が過ぎた
翻る一瞬の音の中にすべてが凝縮されている
閉じ込められていた阿寒湖での遠い年月
いまもこの富士の裾野の湖にたゆたっているのか
朝起き抜けで湖を一周する
午後は岸辺を離れ
湖底に身を沈めるのが掟だ
繰り返すことの意味と無意味
かすかに伝わる波の動きで季節を知る
水ぬるむ朝は
翼を得て北の湖を目指したい
凍りつくことへの果てしない憧れ
生と死の狭間に横たわる
薄刃のような神の摂理
やがてこの裾野にも氷河期がくる
おれたちの末裔はその時まで
生きのびることができるというのか
富士を映す紗幕のような湖面の裏側に
虚しい真実を求めながら

 「姫鱒の暦」とあるから「姫鱒」を歌っているのだろう。富士の裾野にある湖。そこに住む姫鱒。目覚めて湖を一周し、岸からはなれた湖底で眠る。--書いてあるのは、たしかにそうなのだが、私にはなぜか白鳥の姿が思い浮かんだ。

翼を得て北の湖を目指したい

 この1行の「翼」のせいだろうか。だが、「得て……したい」というのだから、その存在が翼をもたないことは明らかである。白鳥ではない。白鳥ではなく、たしかに姫鱒なのだ。そうわかっていても、白鳥が思い浮かぶ。
 なぜか、飛べなくなった白鳥が自分自身を「姫鱒」と思い込もうとしている。飛ぶことのできなくなった「姫鱒」であると自分に言い聞かせて、その上で「翼があったら」と夢見ているように感じられるのだ。
 否定された夢。その否定された夢を取り戻すために、あえて、自分を白鳥ではなく、姫鱒であると信じ込もうとしている白鳥。
 私の目に浮かぶのは、そんなまぼろしである。その悲しみである。
 その悲しみを、より鮮烈にする、次の1行。

凍りつくことへの果てしない憧れ

 ここには、死への、不思議な憧れがある。「凍りつく」。湖面が白くうっすらと凍る。そのときの、不思議な静謐。
 白鳥が動けば氷は割れる。それくらいの、薄い薄い氷。でも、白鳥は動かない。動かず、閉じ込められることを夢見ている。そのとき、氷は湖と空の境界線である。境界線は「水面」として、いつも存在するけれど、その「境界」をさらに印象づける、「まぼろし」。「まぼろし」が具体的になったもの。(これは、もちろん、比喩として書いているのだが……)その、「まぼろし」そのものになってしまうことを白鳥は夢見ている。氷といっしょに凍てついて、普遍の彫像になる。そんな、夢。

生と死の狭間に横たわる
薄刃のような神の摂理

 薄く薄く湖面にはりつめた氷が「神の摂理」なら、そのとき、その氷の只中にあって、ひたすら凍てつき彫像になってしまう白鳥もまた「神の摂理」そのものに違いない。
 そんな夢が、そんな幻が、静かに震えている。

 私の読み方は、明らかに誤読である。「白鳥」などどこにも描かれていない。稲垣自身も「姫鱒」と書いている。タイトルにはっきり、そう書いてある。しかし、何度読み返しても、私には、白鳥にしか見えない。



 この詩集には、稲垣の闘病の詩がたくさん含まれている。以前、稲垣の詩集について感想を書いたとき、稲垣が闘病を克服して書いている、という私信をもらったことがある。稲垣が闘病中であることを私は知っている。そういうことが、詩を読むときの私のこころに影響しているのかもしれない。
 あまりの静謐な美しさに、「白鳥の歌」ということばがふいに浮かんだのである。

 この作品が「白鳥の歌」であってほしくないと思う。これを超える作品をぜひ書きあげてほしいと思う。そういう祈りもこめて、あえて、この作品に「白鳥」を感じたということを記しておきたい。
 ことばは裏切られるためにある。私のことばが、稲垣の肉体によって裏切られることを祈っている。


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稲垣 瑞雄
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