森川雅美『山越』(思潮社、2008年09月01日発行)
私には森川雅美の詩はよくわからない。
たとえば、私には岩佐なをの詩もよくわからない。なぜ、こんなに気持ち悪いのか、まったくわからない。岩佐の書いている詩を気持ちよく感じるひとがいるということは推測できるが、私には、ともかく気持ちが悪い。しかし、岩佐の詩については、わからなくて、とても気持ちが悪いにもかかわらず、ついつい読んでしまう。読んでしまうと、ついつい感想書いてしまう。こんな気持ち悪い詩を書かないでください、とほんとうはいいたいのだが、なぜか引き込まれてしまう。岩佐のことばに肉体を感じるからだ。肉体のあるものには、私はどうしても反応してしまう。そして、こんなに気持ちが悪いのは、もしかしたら、これが好きってことかなあ、などと考え、ときどきぞっとしてしまう。岩佐のことばが好きっていやだよなあ、ぜったいにいやだよなあ、と言い聞かせるために私は岩佐の作品について何事かを書いてしまうのかもしれない。
森川の詩についての「わからない」は、岩佐の詩に対する「わからなさ」とはまったく別の次元に属する。
森川の詩のわからなさを私なりに説明すると。
たとえば、今回の詩はとても長い。「2000行の野心的長編詩」と帯にある。だが、数えたわけではないので何行あるかわからない。--そういうときの「わからない」なのである。「2000行」書いてある、ということは「帯」からはわかるが、それは私が確かめたことではなく、他人がそう書いているのであり、私にはそれがほんとうかどうかわからない。数えればたしかに2000行あるのだろうけれど、そんなことは「わからない」ままにしておいていいことだろうと思う。2001行あろうが、1998行であろうが、それはデジタルな情報であって、2000行と2001行、1998行の区別なんて「頭」でわかるだけであって、読んだ実感として差異がない。--そういうわからなさが、森川のことばにはつきまとっている。
森川はとても「頭」がいいひとなのだと思う。2000行と2001行、1998行の違いがわかるような「頭」のいいひとなのだと思う。私にも、ちゃんと数を数えれば2000行と2001行、1998行の違いは指摘できるけれど、私はそんなめんどうなこと「わかりたくない」という人間なのだ。簡単に言い直すと、「頭」のいいひとのことばを読んでいると、なんだかめんどうになり、「わからない」とひとくくりにして安心してしまいたいのである。2000行、2001行、1998行の違いなんかわかっても、私の暮らしがかわるわけではないから、それがたとえ2015行、1980行であっても「嘘つくな」なんて言わずに、「へえーっ、そうですか」ですましてしまう。そんなところに「真実」を探すようなことをしたくない。
こんな抽象的な批判をしても、また森川に叱られるだけだろうけれど、まず、そのことだけは書いておきたいと思った。
で、作品である。
12ページに、次の1行がある。
この1行に森川の思想が凝縮していると思う。私は思想ということばをつかったが、森川の作品に対してつかった思想は、私が、他の人の作品を評価するときにつかう思想ということばとはかなり違う。森川の思想は「頭の思想」、ほかのひとの作品のときにつかう思想は「肉体の思想」というくらいに違う。別のことばで言い直せば、「頭の思想」とは「意味の思想」、あるいは「思想の意味」になるかもしれない。
森川のこの1行を私が「頭の思想」と呼ぶのは、その行のなかに出てくる「言葉」という表現に「頭」を感じるからだ。
なぜ、「言葉」? なぜ、きちんと伝えられるもの? なぜ、「言葉」になってしまっているもの、「頭」で処理されたものを「つなぎたい」のだろうか。「頭」で処理されたものは、別に、森川がつながなくても、読者がかってに本を読んでつなげばいいのではないだろうか。
私は、たとえば岩佐を詩を読んでいて感じるのは「ことば」を「つなぐ」という行為ではない。逆のことだ。人間の暮らしには「ことば」にならないものがある。「ことば」では伝えられないものがある。それに「肉体」でしか伝えられない。卑近な(?)例で言えば、「ことば」にならない「いのち」はセックスでしか伝えられない。「あー」とか「うー」とか「いくーっ」とか、たとえばマルクスやカントの「頭の思想」には無縁なことばをわめきながらつないでゆくものが「肉体」にはある。それは愛し合っていても、憎しみ合っていても、何の感情もなくても、ときにはつながってしまうものである。そして、つながってしまうために、ときにはひとは苦しんだり、悩んだりもする。思い通りに行かないもの。矛盾したものが「肉体の思想」にはある。その矛盾したものを、あるがままに浮かび上がらせるのが芸術の(詩の)仕事だろうと私は感じている。
「言葉」をつなぐのではなく、むしろ逆だろう。ことばを切り離して、ことば以前に返して、ことばがことば自らの力で、それまでことばとして存在しなかったものと結びつくようにしむけるのが詩であるだろう。生きる人と生きえなかった人の「言葉にならないもの」をつなげるために、いまあることばを解体するのが詩ではないのだろうか。芸術ではないのだろうか。
ことばが解体する(解体させる)--その果てにあらわれてくる自由。
ことばが解体するとき、それまでの精神・感情・その他人間の「内部」(?--とりあえず、そう呼んでおく)ものが、解放される。ものの見方の限定からときはなたれる。そして、何かとんでもないものとかってに結びつく。その瞬間に、「あ、こんなの、はじめて」という興奮とよろこびがやってくる。「頭」に、ではなく、「肉体」に。
そういうものを感じさせてくれないことばは、私は「わかりたくない」。だから、「わからない」、というしかない。
私には森川雅美の詩はよくわからない。
たとえば、私には岩佐なをの詩もよくわからない。なぜ、こんなに気持ち悪いのか、まったくわからない。岩佐の書いている詩を気持ちよく感じるひとがいるということは推測できるが、私には、ともかく気持ちが悪い。しかし、岩佐の詩については、わからなくて、とても気持ちが悪いにもかかわらず、ついつい読んでしまう。読んでしまうと、ついつい感想書いてしまう。こんな気持ち悪い詩を書かないでください、とほんとうはいいたいのだが、なぜか引き込まれてしまう。岩佐のことばに肉体を感じるからだ。肉体のあるものには、私はどうしても反応してしまう。そして、こんなに気持ちが悪いのは、もしかしたら、これが好きってことかなあ、などと考え、ときどきぞっとしてしまう。岩佐のことばが好きっていやだよなあ、ぜったいにいやだよなあ、と言い聞かせるために私は岩佐の作品について何事かを書いてしまうのかもしれない。
森川の詩についての「わからない」は、岩佐の詩に対する「わからなさ」とはまったく別の次元に属する。
森川の詩のわからなさを私なりに説明すると。
たとえば、今回の詩はとても長い。「2000行の野心的長編詩」と帯にある。だが、数えたわけではないので何行あるかわからない。--そういうときの「わからない」なのである。「2000行」書いてある、ということは「帯」からはわかるが、それは私が確かめたことではなく、他人がそう書いているのであり、私にはそれがほんとうかどうかわからない。数えればたしかに2000行あるのだろうけれど、そんなことは「わからない」ままにしておいていいことだろうと思う。2001行あろうが、1998行であろうが、それはデジタルな情報であって、2000行と2001行、1998行の区別なんて「頭」でわかるだけであって、読んだ実感として差異がない。--そういうわからなさが、森川のことばにはつきまとっている。
森川はとても「頭」がいいひとなのだと思う。2000行と2001行、1998行の違いがわかるような「頭」のいいひとなのだと思う。私にも、ちゃんと数を数えれば2000行と2001行、1998行の違いは指摘できるけれど、私はそんなめんどうなこと「わかりたくない」という人間なのだ。簡単に言い直すと、「頭」のいいひとのことばを読んでいると、なんだかめんどうになり、「わからない」とひとくくりにして安心してしまいたいのである。2000行、2001行、1998行の違いなんかわかっても、私の暮らしがかわるわけではないから、それがたとえ2015行、1980行であっても「嘘つくな」なんて言わずに、「へえーっ、そうですか」ですましてしまう。そんなところに「真実」を探すようなことをしたくない。
こんな抽象的な批判をしても、また森川に叱られるだけだろうけれど、まず、そのことだけは書いておきたいと思った。
で、作品である。
12ページに、次の1行がある。
生きる人と生きえなかった人の言葉をつなぎたいと思う
この1行に森川の思想が凝縮していると思う。私は思想ということばをつかったが、森川の作品に対してつかった思想は、私が、他の人の作品を評価するときにつかう思想ということばとはかなり違う。森川の思想は「頭の思想」、ほかのひとの作品のときにつかう思想は「肉体の思想」というくらいに違う。別のことばで言い直せば、「頭の思想」とは「意味の思想」、あるいは「思想の意味」になるかもしれない。
森川のこの1行を私が「頭の思想」と呼ぶのは、その行のなかに出てくる「言葉」という表現に「頭」を感じるからだ。
なぜ、「言葉」? なぜ、きちんと伝えられるもの? なぜ、「言葉」になってしまっているもの、「頭」で処理されたものを「つなぎたい」のだろうか。「頭」で処理されたものは、別に、森川がつながなくても、読者がかってに本を読んでつなげばいいのではないだろうか。
私は、たとえば岩佐を詩を読んでいて感じるのは「ことば」を「つなぐ」という行為ではない。逆のことだ。人間の暮らしには「ことば」にならないものがある。「ことば」では伝えられないものがある。それに「肉体」でしか伝えられない。卑近な(?)例で言えば、「ことば」にならない「いのち」はセックスでしか伝えられない。「あー」とか「うー」とか「いくーっ」とか、たとえばマルクスやカントの「頭の思想」には無縁なことばをわめきながらつないでゆくものが「肉体」にはある。それは愛し合っていても、憎しみ合っていても、何の感情もなくても、ときにはつながってしまうものである。そして、つながってしまうために、ときにはひとは苦しんだり、悩んだりもする。思い通りに行かないもの。矛盾したものが「肉体の思想」にはある。その矛盾したものを、あるがままに浮かび上がらせるのが芸術の(詩の)仕事だろうと私は感じている。
「言葉」をつなぐのではなく、むしろ逆だろう。ことばを切り離して、ことば以前に返して、ことばがことば自らの力で、それまでことばとして存在しなかったものと結びつくようにしむけるのが詩であるだろう。生きる人と生きえなかった人の「言葉にならないもの」をつなげるために、いまあることばを解体するのが詩ではないのだろうか。芸術ではないのだろうか。
ことばが解体する(解体させる)--その果てにあらわれてくる自由。
ことばが解体するとき、それまでの精神・感情・その他人間の「内部」(?--とりあえず、そう呼んでおく)ものが、解放される。ものの見方の限定からときはなたれる。そして、何かとんでもないものとかってに結びつく。その瞬間に、「あ、こんなの、はじめて」という興奮とよろこびがやってくる。「頭」に、ではなく、「肉体」に。
そういうものを感じさせてくれないことばは、私は「わかりたくない」。だから、「わからない」、というしかない。
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