詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代『ことば汁』

2008-10-22 08:56:33 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『ことば汁』(中央公論新社、2008年09月25日発行)

 「女房」のなかに、次の1行がある。

 理論は時として飛ぶものである。

 ザリガニが脱皮したのを見て、突然2匹になったと思う。しかも1匹は死んでいる、と思う。しかし、それは脱皮したザリガニと、生きているザリガニであった。そうわかって「ほっとしました」。
 実は、その脱皮したザリガニは、女と男が見ているのだ。そして、男と女(前の女房)が「脱皮した」と気づいて、同じように「ほっとしました」と感じ、その同じ気持ちのまま、いっしょに暮らすようになった--ということを説明するために語られるエピソードである。
 え? 脈絡がたどれない?
 そう、そんなふうにして、「理論」は「飛ぶ」。なぜ脱皮したザリガニだと気づいて「ほっとしました」という感想がいっしょになったからといって、男と女がいっしょにくらさなければならないのか。そんなところに「脈絡」はない。
 この「脈絡のなさ」を小池は(あるいは、小説の主人公は、と言い換えるべきか)「理論は飛ぶ」と呼んでいる。
 そのあとにも、小池独特の表現がつづく。

 理論は時として飛ぶものである。レオは脱力した。どこか、かすかに、自由になったよろこびもあった。

 「脈絡のなさ」。それが「脱力」であり、「自由」である。この「自由」には「かすかに」という修飾がついている。限定、がついている。
 生きているということは、なにも「理論」(私のことばでは、むしろ「論理」だが)をいつもいつもきちんとしているということではない。「理論」で暮らしをとらえると窮屈になる。どこかで、そういうものを放り出す瞬間がある。
 主人公以外のふたりは「ほっとしました」と言っているが、その「ほっとした」感じは、どこかで「脱力」とつながっている。

 「脱力」と「ほっとする」は、似ていて少し違う。「ほっとする」はともかく「安心」につながるが、「脱力」は「安心」とは必ずしもつながらない。何かを制御する力を維持できなくなる--一種の不能性が「脱力」である。力が抜けて、無力になる。力が失われていくのを感じる。力がなくなったとき、ひとは一般に、「自由」を失うけれど、その逆もある。どこかにもう、自分で自分を制御しなくてもいいんだ、という「気楽さ」も生まれる。小池が書こうとしているのは、そういう「無力」の「気楽さ」に通じる感覚である。ほんとうは違うんだけれど、「まあ、いいか」という感じに似ているかもしれない。

 「理論は飛ぶ」。しかし、けっして「飛ばない」ものがある。そういう視点から、見つめなおすと、また別のものも見えてくる。
 「理論」は頭で考えるものである。そういうものは「実体」がない。「実体」がないからこそ、「実体」をもとめる。素粒子論などを考えてみると、よくわかる。「クオーク」なんて、そもそも存在しない。いや、存在しなかった。それが存在する前に、まず「理論」があった。「理論」はそれを証明する「実体」をもとめた。そして、「クオーク」を発見する。そのあとで、実はこれこれのものは、こういう「理論」によって解明できるという具合に「学問」は進んで行く。だから、ときどき「理論」は飛ぶ。原子、陽子、電子、中性子と言っていたと思ったら、素粒子、クオークという具合に、基本になるものが、ぽーんと「飛んで」、別なものになってしまう。
 ところが、人間には、そんなふうに「飛ばない」ものがある。ずるずるとつながっていって、ずるずるとつづくものがある。「肉体」である。「肉体」は常に変わっているけれど、常につづいている。けっして「飛ばない」。
 それはある意味ではだらしない。だらしないけれど、なんだか、だらしないぶんだけ気安さがある。
 「脱力した」の主語は「精神」であるけれど、「精神」が「脱力」するとき、なんとなく「肉体」も「脱力」する。肉体の力も抜ける。だらしなくなる。肉体の力が抜けたとき、肉体は何か別のものに触れる。ちょっとおおげさに言うと、それまで肉体をつつんでいた空気の枠とは別の枠に触れる。違う空間を生きはじめる。その瞬間の自由は「精神」の自由というより、「肉体」の自由である。だらしなくたっていいんだ、ということを味わう「肉体」のよろこびである。

 小池の小説には、その「だらしなさ」へのあこがれのようなものが煮詰まっている。どの小説にも「生真面目」な「理論」を生きる人間が描かれている。そして、その人間が「生真面目」の「理論」をある日、放り出す。手放す。それは「飛ぶ」というより、むしろ「崩れる」に近いかもしれないが……。そして、その「飛ぶ」ことによって生まれた空隙へ、肉体がずるっと入り込み、だらしなく、己の場を広げて行く。そのときの、ふしぎな快感。そういうものへのあこがれが、煮詰まっている。
 煮詰まっている、というのは奇妙な言い方になるが、詰まっているではなく、私には「煮詰まっている」ように感じられる。
 たぶん、小池はそういう「煮詰まったもの」を書きたいのだと思う。「煮詰まっていく」ときの人間の動きを書きたいのだと思う。

 そんなことを考えた。




ことば汁
小池 昌代
中央公論新社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「証言A(1963)」(3)中井久夫訳

2008-10-22 00:19:53 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言A(1963)」(3)中井久夫訳

石   リッツォス(中井久夫訳)

日々が来ては去る。努力も、新鮮な驚異もなく。
光と記憶に濡れそぼつ石。
ある者は石を枕にする。
ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。
ある者は石を腰掛けにする。
ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。

陽が沈む。家に帰る。浜の石は卓に置いて小さな像になる。小さなニケの像。アルテミスの猟犬。昼、若者の濡れた足の台になったこの石は、睫毛の影の恋パトロクロス。



 リッツォスの詩は映画の1シーンのように感じられる。(これは、昨日書いたことにつながる。)いつも映像がくっきりしている。そして、その映像は、いつもその「風景」をみつめるひとと強い関係がある。
 登場人物が風景をみつめるのは当然である。
 リッツォスは登場人物がみつめる風景と同時に、実は、その登場人物そのものを「風景」のようにみつめる存在を描く。
 だれかをみつめるだれか。
 だが、それはだれなのかは書かない。関係を少し感じさせるだけである。
 映画、映像ならば、その視線にそまった輝きがスクリーンに投げかけられることになる。ところが、ことばは映像ほど「視線」の色をつたえない。映像は「肉体」的な何かを感じさせるが、ことばはもっと抽象的で、「色」がない。
 ……はずである。
 しかし、この詩には「色」がある。独特の「匂い」がある。「視覚」をとおってくるときの、ときめきのようなものがある。
 だれか(A)をみつめるだれか(B)。そのときの、Aに対するBの思いを感じさせる「色」がある。

ある者は着物を脱いで、風で飛ばないように石で押さえ、泳ぐ。

 この1行には、「だれが」泳いだのか描かれていない。「だれか」がどんな肉体をしていたか、書いていない。けれども、その「肉体」を裸の輝きを、まぶしい思いでみつめている視線が「肉体」として描かれている。その「視線」のために、風景に「色」がついている。その「色」を消し去ろうとしてあがく視線が「石」に向かい、石につまずいている。

ある者は目印に。畑の、墓地の、壁の、森の--。

 はとてもかわっている。ほんとうに「畑」の目印に? いや、そんなことはない。「畑」のなにかの目印だ。畑そのものの目印なんて、ありえない。畑は広い。目印がなくても畑だとわかる。目印は、何かを植えた、埋めた目印である。墓地の目印も何かを埋めた目印だ。壁の目印も何かを塗り込めた目印だ。
 そこには、つまり、隠されたものがある。
 隠されたものの「印」、暗示、象徴が「石」なのだ。

 何をほんとうは隠しているのか。「ニケ」、「アルミテス」(犬)、「若者」、「睫毛」、「パトロクロス」。
 これはリッツォスの世界というより、カヴァフィスの世界かもしれない。中井はカヴァフィスも訳している。同じギリシャの詩人である。リッツォスの方が、私の印象では禁欲的である。




カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする