小池昌代『ことば汁』(中央公論新社、2008年09月25日発行)
「女房」のなかに、次の1行がある。
ザリガニが脱皮したのを見て、突然2匹になったと思う。しかも1匹は死んでいる、と思う。しかし、それは脱皮したザリガニと、生きているザリガニであった。そうわかって「ほっとしました」。
実は、その脱皮したザリガニは、女と男が見ているのだ。そして、男と女(前の女房)が「脱皮した」と気づいて、同じように「ほっとしました」と感じ、その同じ気持ちのまま、いっしょに暮らすようになった--ということを説明するために語られるエピソードである。
え? 脈絡がたどれない?
そう、そんなふうにして、「理論」は「飛ぶ」。なぜ脱皮したザリガニだと気づいて「ほっとしました」という感想がいっしょになったからといって、男と女がいっしょにくらさなければならないのか。そんなところに「脈絡」はない。
この「脈絡のなさ」を小池は(あるいは、小説の主人公は、と言い換えるべきか)「理論は飛ぶ」と呼んでいる。
そのあとにも、小池独特の表現がつづく。
「脈絡のなさ」。それが「脱力」であり、「自由」である。この「自由」には「かすかに」という修飾がついている。限定、がついている。
生きているということは、なにも「理論」(私のことばでは、むしろ「論理」だが)をいつもいつもきちんとしているということではない。「理論」で暮らしをとらえると窮屈になる。どこかで、そういうものを放り出す瞬間がある。
主人公以外のふたりは「ほっとしました」と言っているが、その「ほっとした」感じは、どこかで「脱力」とつながっている。
「脱力」と「ほっとする」は、似ていて少し違う。「ほっとする」はともかく「安心」につながるが、「脱力」は「安心」とは必ずしもつながらない。何かを制御する力を維持できなくなる--一種の不能性が「脱力」である。力が抜けて、無力になる。力が失われていくのを感じる。力がなくなったとき、ひとは一般に、「自由」を失うけれど、その逆もある。どこかにもう、自分で自分を制御しなくてもいいんだ、という「気楽さ」も生まれる。小池が書こうとしているのは、そういう「無力」の「気楽さ」に通じる感覚である。ほんとうは違うんだけれど、「まあ、いいか」という感じに似ているかもしれない。
「理論は飛ぶ」。しかし、けっして「飛ばない」ものがある。そういう視点から、見つめなおすと、また別のものも見えてくる。
「理論」は頭で考えるものである。そういうものは「実体」がない。「実体」がないからこそ、「実体」をもとめる。素粒子論などを考えてみると、よくわかる。「クオーク」なんて、そもそも存在しない。いや、存在しなかった。それが存在する前に、まず「理論」があった。「理論」はそれを証明する「実体」をもとめた。そして、「クオーク」を発見する。そのあとで、実はこれこれのものは、こういう「理論」によって解明できるという具合に「学問」は進んで行く。だから、ときどき「理論」は飛ぶ。原子、陽子、電子、中性子と言っていたと思ったら、素粒子、クオークという具合に、基本になるものが、ぽーんと「飛んで」、別なものになってしまう。
ところが、人間には、そんなふうに「飛ばない」ものがある。ずるずるとつながっていって、ずるずるとつづくものがある。「肉体」である。「肉体」は常に変わっているけれど、常につづいている。けっして「飛ばない」。
それはある意味ではだらしない。だらしないけれど、なんだか、だらしないぶんだけ気安さがある。
「脱力した」の主語は「精神」であるけれど、「精神」が「脱力」するとき、なんとなく「肉体」も「脱力」する。肉体の力も抜ける。だらしなくなる。肉体の力が抜けたとき、肉体は何か別のものに触れる。ちょっとおおげさに言うと、それまで肉体をつつんでいた空気の枠とは別の枠に触れる。違う空間を生きはじめる。その瞬間の自由は「精神」の自由というより、「肉体」の自由である。だらしなくたっていいんだ、ということを味わう「肉体」のよろこびである。
小池の小説には、その「だらしなさ」へのあこがれのようなものが煮詰まっている。どの小説にも「生真面目」な「理論」を生きる人間が描かれている。そして、その人間が「生真面目」の「理論」をある日、放り出す。手放す。それは「飛ぶ」というより、むしろ「崩れる」に近いかもしれないが……。そして、その「飛ぶ」ことによって生まれた空隙へ、肉体がずるっと入り込み、だらしなく、己の場を広げて行く。そのときの、ふしぎな快感。そういうものへのあこがれが、煮詰まっている。
煮詰まっている、というのは奇妙な言い方になるが、詰まっているではなく、私には「煮詰まっている」ように感じられる。
たぶん、小池はそういう「煮詰まったもの」を書きたいのだと思う。「煮詰まっていく」ときの人間の動きを書きたいのだと思う。
そんなことを考えた。
「女房」のなかに、次の1行がある。
理論は時として飛ぶものである。
ザリガニが脱皮したのを見て、突然2匹になったと思う。しかも1匹は死んでいる、と思う。しかし、それは脱皮したザリガニと、生きているザリガニであった。そうわかって「ほっとしました」。
実は、その脱皮したザリガニは、女と男が見ているのだ。そして、男と女(前の女房)が「脱皮した」と気づいて、同じように「ほっとしました」と感じ、その同じ気持ちのまま、いっしょに暮らすようになった--ということを説明するために語られるエピソードである。
え? 脈絡がたどれない?
そう、そんなふうにして、「理論」は「飛ぶ」。なぜ脱皮したザリガニだと気づいて「ほっとしました」という感想がいっしょになったからといって、男と女がいっしょにくらさなければならないのか。そんなところに「脈絡」はない。
この「脈絡のなさ」を小池は(あるいは、小説の主人公は、と言い換えるべきか)「理論は飛ぶ」と呼んでいる。
そのあとにも、小池独特の表現がつづく。
理論は時として飛ぶものである。レオは脱力した。どこか、かすかに、自由になったよろこびもあった。
「脈絡のなさ」。それが「脱力」であり、「自由」である。この「自由」には「かすかに」という修飾がついている。限定、がついている。
生きているということは、なにも「理論」(私のことばでは、むしろ「論理」だが)をいつもいつもきちんとしているということではない。「理論」で暮らしをとらえると窮屈になる。どこかで、そういうものを放り出す瞬間がある。
主人公以外のふたりは「ほっとしました」と言っているが、その「ほっとした」感じは、どこかで「脱力」とつながっている。
「脱力」と「ほっとする」は、似ていて少し違う。「ほっとする」はともかく「安心」につながるが、「脱力」は「安心」とは必ずしもつながらない。何かを制御する力を維持できなくなる--一種の不能性が「脱力」である。力が抜けて、無力になる。力が失われていくのを感じる。力がなくなったとき、ひとは一般に、「自由」を失うけれど、その逆もある。どこかにもう、自分で自分を制御しなくてもいいんだ、という「気楽さ」も生まれる。小池が書こうとしているのは、そういう「無力」の「気楽さ」に通じる感覚である。ほんとうは違うんだけれど、「まあ、いいか」という感じに似ているかもしれない。
「理論は飛ぶ」。しかし、けっして「飛ばない」ものがある。そういう視点から、見つめなおすと、また別のものも見えてくる。
「理論」は頭で考えるものである。そういうものは「実体」がない。「実体」がないからこそ、「実体」をもとめる。素粒子論などを考えてみると、よくわかる。「クオーク」なんて、そもそも存在しない。いや、存在しなかった。それが存在する前に、まず「理論」があった。「理論」はそれを証明する「実体」をもとめた。そして、「クオーク」を発見する。そのあとで、実はこれこれのものは、こういう「理論」によって解明できるという具合に「学問」は進んで行く。だから、ときどき「理論」は飛ぶ。原子、陽子、電子、中性子と言っていたと思ったら、素粒子、クオークという具合に、基本になるものが、ぽーんと「飛んで」、別なものになってしまう。
ところが、人間には、そんなふうに「飛ばない」ものがある。ずるずるとつながっていって、ずるずるとつづくものがある。「肉体」である。「肉体」は常に変わっているけれど、常につづいている。けっして「飛ばない」。
それはある意味ではだらしない。だらしないけれど、なんだか、だらしないぶんだけ気安さがある。
「脱力した」の主語は「精神」であるけれど、「精神」が「脱力」するとき、なんとなく「肉体」も「脱力」する。肉体の力も抜ける。だらしなくなる。肉体の力が抜けたとき、肉体は何か別のものに触れる。ちょっとおおげさに言うと、それまで肉体をつつんでいた空気の枠とは別の枠に触れる。違う空間を生きはじめる。その瞬間の自由は「精神」の自由というより、「肉体」の自由である。だらしなくたっていいんだ、ということを味わう「肉体」のよろこびである。
小池の小説には、その「だらしなさ」へのあこがれのようなものが煮詰まっている。どの小説にも「生真面目」な「理論」を生きる人間が描かれている。そして、その人間が「生真面目」の「理論」をある日、放り出す。手放す。それは「飛ぶ」というより、むしろ「崩れる」に近いかもしれないが……。そして、その「飛ぶ」ことによって生まれた空隙へ、肉体がずるっと入り込み、だらしなく、己の場を広げて行く。そのときの、ふしぎな快感。そういうものへのあこがれが、煮詰まっている。
煮詰まっている、というのは奇妙な言い方になるが、詰まっているではなく、私には「煮詰まっている」ように感じられる。
たぶん、小池はそういう「煮詰まったもの」を書きたいのだと思う。「煮詰まっていく」ときの人間の動きを書きたいのだと思う。
そんなことを考えた。
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