時里二郎「裏庭」(「ロッジア」3、2008年09月30日発行)
時里の父は歌人だったという。「裏庭」はその父が残した歌と、ノートへの注釈という形をとっている。--というのは、時里の「説明」である。それはそのまま「正直」な「説明」なのだと思うが、「正直」というのは不思議なもので、あまりに「正直」だと「嘘」になってしまう。「嘘」という言い方が悪ければ、「正直」は真実を突き抜けて、何か別なもの、いままで存在しなかったものになってしまうと言い換えてもいい。
行商の暮らしと歌の関係を、「父」は次のように書く。
この現実と虚構の二重構造にあって、現実から虚構を見、さらに虚構から現実をみつめなおすことで、現実が「変質」するというのは、「父」のことばというより、時里自身が彼の詩を語っているようにも聞こえる。
「父」が書いているノート。それ自身が「ほんもの」であっても、そこからそういう部分だけをとりだして書くと……
(ちょっと時里の文体をまねて、以下を書いてみる)
他のもろもろのことばを殊更消し去って、そのことばの内容のせいで、父の思いにかわって、そういう思いを語らせている時里がそこにいる。
言い換えよう。「父」がそのことばを書いたとしても、その部分を取り出してきて、そこに父の思いがあるかのように書いてみても、その部分を取り上げることは、引用しなかった他のことばを消し去ることであり、その取り上げるとことと消去との操作の間からは、「父」が浮かび上がってくるのではなく、そういう操作をしている時里が浮かび上がるだけである。「父」の現実を語らせるふりをしながら、時里は「父」に「時里の現実(思い)」を語らせているのである。
次に引用するのは、時里の「父の歌」に対する批評(?)である。
「批評」ということばに(?)を付けたのは、私は、これを批評と感じていないからだ。感想とも感じていないからだ。
時里は「歌」のことなど考えていない。「ことば」そのものについて考えている。「歌」を突き破って、「歌」の向こう側、「ことば」そのものについて考えている。
「父」が「変質」と呼んだものを、時里は、ここでは「歪(み)」ととらえている。ことばはもとより現実のすべてを描写できない。何かを取り上げることしかできない。何かを書くことは何かを捨てることだ。それを「父」は「変質」と呼び、時里は「歪み」と呼ぶ。
だが、これは変質でも歪みでもない。ことばの基本的な本質である。そういう本質を「変質」「歪み」と、「わざと」突き抜けて考えはじめる。「正直」なふりをして、「わざと」現実を逸脱してしまう。
そして、「そのけれん味は、それゆゑに、現実の影の部分を反映してゐる」と念押しをする。念押しをすることで、ほんとうに「歪めてしまう」「変質させてしまう」。
「歪み」「変質」--それは、時里のことばを借りて言い直せば「影」である。
「歪み」「変質」は、実は「影」である。そう主張することで、時里は、現実へ引き返して行く。
だが、ほんとうに引き返したのか。
違う。突き抜けたのだ。そこに書かれている「影」は現実の影ではなく、比喩である。比喩としてしか言いようのないものである。(つまり、「影」とは言ってみたものの、まだ何も語っていない、あいまいなものである。それは「哲学の用語」のように、きちんと定義されていない何かである。)
「正直」な時里は「正直さ」のあまり、つまり時里自身の関心に忠実なあまり、もう、ここでは「父の歌」「父のノート」について語ることを突き破って、ことばとは何か、詩とは何か(時里が詩を書くとき、何に重点を置いているか)ということを語りはじめるのである。
先の引用のつづき。
ね、時里の試みそのものでしょ。
それにしても。
「現実は実際以上に深く表現できる」--これは、「芸術家」特有のことばだね。
なぜ「実際以上」が必要? 実際以上って何? 実際以上なら「実際」(現実)を超越してしまっていない? 超越しても「現実」?
変でしょ? とっても変でしょ?
その「変」なのが、「詩」なのだ。時里は「表現」ということばをつかっているが、「変な・表現」、「現実を超越してしまった表現」が「詩」なのである。いままで存在しなかったものを「ことば」によって存在させてしまう。それが「詩」なのである。
時里は正直に、「詩とは何か」を告白している。
時里の父は歌人だったという。「裏庭」はその父が残した歌と、ノートへの注釈という形をとっている。--というのは、時里の「説明」である。それはそのまま「正直」な「説明」なのだと思うが、「正直」というのは不思議なもので、あまりに「正直」だと「嘘」になってしまう。「嘘」という言い方が悪ければ、「正直」は真実を突き抜けて、何か別なもの、いままで存在しなかったものになってしまうと言い換えてもいい。
行商の暮らしと歌の関係を、「父」は次のように書く。
不思議なのは、さうやつて忠実に日常をことばに換えていくことによつて、現実が妙に変質してゐるのに気づいた。歌を通して見えるわたしと、現実のわたしとの間にはずいぶんと乖離がある。現実から失はれるものと付け加はるものがある。(略)
今日は三度雨にあひて三所に雨宿りして一日暮れたり
(略)
三度雷雨に遇ひ、三所で雨宿りした。これは間違ひのない事実であり、そのまま歌にした。ところが、この歌に詠はれた一日は、三度雨に遇ひ、三度雨宿りしたことが、他のもろもろの日常を殊更消し去つて、その歌のリズムのせゐで、むしろ雨に遭ふ行商のつらさを嘆いてゐるわたしにかはつて、歌にうたはれたつらさを演じてゐるわたしがそこにゐる。
この現実と虚構の二重構造にあって、現実から虚構を見、さらに虚構から現実をみつめなおすことで、現実が「変質」するというのは、「父」のことばというより、時里自身が彼の詩を語っているようにも聞こえる。
「父」が書いているノート。それ自身が「ほんもの」であっても、そこからそういう部分だけをとりだして書くと……
(ちょっと時里の文体をまねて、以下を書いてみる)
他のもろもろのことばを殊更消し去って、そのことばの内容のせいで、父の思いにかわって、そういう思いを語らせている時里がそこにいる。
言い換えよう。「父」がそのことばを書いたとしても、その部分を取り出してきて、そこに父の思いがあるかのように書いてみても、その部分を取り上げることは、引用しなかった他のことばを消し去ることであり、その取り上げるとことと消去との操作の間からは、「父」が浮かび上がってくるのではなく、そういう操作をしている時里が浮かび上がるだけである。「父」の現実を語らせるふりをしながら、時里は「父」に「時里の現実(思い)」を語らせているのである。
次に引用するのは、時里の「父の歌」に対する批評(?)である。
結核患者の日常の起居を忠実に射精することが現実を直視することであるとする作品の多いなかにあって、彼の作品は、日常を脚色し、ドラマを演出し、つまり現実を歪めてゐるやうに見える。しかし、そのけれん味は、それゆゑに、現実の影の部分を反映してゐると言へはしまいか。
「批評」ということばに(?)を付けたのは、私は、これを批評と感じていないからだ。感想とも感じていないからだ。
時里は「歌」のことなど考えていない。「ことば」そのものについて考えている。「歌」を突き破って、「歌」の向こう側、「ことば」そのものについて考えている。
「父」が「変質」と呼んだものを、時里は、ここでは「歪(み)」ととらえている。ことばはもとより現実のすべてを描写できない。何かを取り上げることしかできない。何かを書くことは何かを捨てることだ。それを「父」は「変質」と呼び、時里は「歪み」と呼ぶ。
だが、これは変質でも歪みでもない。ことばの基本的な本質である。そういう本質を「変質」「歪み」と、「わざと」突き抜けて考えはじめる。「正直」なふりをして、「わざと」現実を逸脱してしまう。
そして、「そのけれん味は、それゆゑに、現実の影の部分を反映してゐる」と念押しをする。念押しをすることで、ほんとうに「歪めてしまう」「変質させてしまう」。
「歪み」「変質」--それは、時里のことばを借りて言い直せば「影」である。
「歪み」「変質」は、実は「影」である。そう主張することで、時里は、現実へ引き返して行く。
だが、ほんとうに引き返したのか。
違う。突き抜けたのだ。そこに書かれている「影」は現実の影ではなく、比喩である。比喩としてしか言いようのないものである。(つまり、「影」とは言ってみたものの、まだ何も語っていない、あいまいなものである。それは「哲学の用語」のように、きちんと定義されていない何かである。)
「正直」な時里は「正直さ」のあまり、つまり時里自身の関心に忠実なあまり、もう、ここでは「父の歌」「父のノート」について語ることを突き破って、ことばとは何か、詩とは何か(時里が詩を書くとき、何に重点を置いているか)ということを語りはじめるのである。
先の引用のつづき。
われわれは、影に目を向けることによつて、その実態を陰影深く表現することの効用を知つてゐる。影を写生することによつて、現実は実際以上に深く表現できるのではないか。
ね、時里の試みそのものでしょ。
それにしても。
「現実は実際以上に深く表現できる」--これは、「芸術家」特有のことばだね。
なぜ「実際以上」が必要? 実際以上って何? 実際以上なら「実際」(現実)を超越してしまっていない? 超越しても「現実」?
変でしょ? とっても変でしょ?
その「変」なのが、「詩」なのだ。時里は「表現」ということばをつかっているが、「変な・表現」、「現実を超越してしまった表現」が「詩」なのである。いままで存在しなかったものを「ことば」によって存在させてしまう。それが「詩」なのである。
時里は正直に、「詩とは何か」を告白している。
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