詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』

2008-10-19 10:58:53 | 詩集
 塚越祐佳『雲がスクランブルエッグに見えた日』(思潮社、2008年09月30日発行)

 巻頭は「星期四」という作品。その1連目が非常に気になる。

ゆうやけ
が上に下に

つばもゆきも
もくようびも
どうろに落ちる長い影

 特に後半の3行が印象に残る。ひらがなのせいである。もし、これが漢字まじりで書かれていたら印象がまったく違ってしまう。

唾も雪も
木曜日も
道路に落ちる長い影

 たぶん、私は読み過ごしてしまう。
 「つばもゆきも/もくようびも/どうろに」のなかにある濁音の響き。それが、私ののどを刺激する。口蓋を刺激する。耳を刺激する。その音はもちろん漢字にしても同じ音なのだが、感じだと「音」の前に「視覚」が働いてしまう。視力が「意味」をすくいとってしまう。音は背後に隠れてしまう。
 これは塚越の感覚というよりも私の感覚について語ることになってしまうが、私は、ことばをどうやら「視覚」を優先させてつかみ取ってしまう。「ひらがな」だと、「視覚」は「意味」を取り損ねる。「ひらがな」だと、ばらばらの「音」が先に肉体に反応し、そのあとで、「これはなに?」という感じで、遅れて「意味」(漢字で書かれたもの)がやってくる。そして、その遅れてやってくる「意味」までの間、のどが、舌が、口蓋が、あるいは鼻腔が音の響きを楽しんでいる。私の場合、「耳」というより、発音器官(?)が「音」を楽しむ。

 塚越は、こういう効果を狙っているのだろうか。

 はっきりとは、わからない。わかるのは、塚越の詩ではなく、私の感覚についてである。私は、こんなふうにして「音」を通して肉体が反応したとき、とても気持ちがいい。そして、会ったこともない塚越の「肉体」が恋しくなる。大げさに言えば、塚越の「肉体」と一体化したような快感を覚える。
 ちょっと、誤解を与える書き方だったかもしれないけれど。
 例を別なものに置き換えると、たとえばパバロッティの声を聞いたとき。その声を私は出せるわけではない。けれど、その声を聞くと、「耳」よりも「のど」が反応する。ああ、こんなふうにして声が出たら気持ちがいいだろうなあ。そして、そのときの気持ちのよさのなかに、私の「肉体」が溶け込んで行く。
 それに似た感じを、冒頭の1連に感じたのである。

 最後の連は、濁音ではなく「清音」に反応してしまった。

ゆうやけ
が上に下に
ぴって わたし
ひかりはさしこむくらいがいい
しょゆうしたら
そこからは
かんたんだった

 「しょゆうしたら」がたまらなく気持ちがいい。肉体全体が快感に溺れる。「ぴって」という半濁音「ぴ」と、「て」のあいまいな響きが、清音をいっそう透明にするのかもしれない。一種の不純物(?)がすぐ近くにあることで、清音の清らかさがいっそう引き立つのかもしれない。

 たの作品でも、私は(私の感覚は)、塚越の「ひらがな」に反応する。「冬のボサノバ」のなかほど。

穴の底には
ほそながい音工場

 「ほそながい」がとてもいい。とても気持ちがいい。あくまで私の肉体感覚のことなので、何がどうして、とは説明できないのだけれど……。あえていえば、この「ほそながい」は窮屈じゃない。「細長い」は窮屈だが「ほそながい」には窮屈をはみだす「ゆとり」がある。隙間がある。「細長い」なら3文字、「ほそながい」なら5文字。ひらがなのほうが長くて、そして字画がゆったりしているせいかなあ。

 あ、私は「音」のことを書いていたのに、なぜか、ここでは「視覚」のことを書いているなあ。

 「視覚」「聴覚」そして「発声器官」がどこかで溶け合っている。その感じが、とても気持ちがいいのかもしれない。




雲がスクランブルエッグに見えた日
塚越 祐佳
思潮社

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