田中庸介『スウィートな群青の夢』(2)(未知谷、2008年10月27日)
きのう「うどん」について書いたとき、田中の「頭」がうどんでいっぱいになっていると書いた。このときの「頭」は、私がいつも批判的に書いている「頭」ではない。うどんでいっぱいになった「頭」は「頭」であることをやめて「肉体」になっている。その無防備な「肉体」の正直さが田中の作品の魅力だ。
「うどん」はおいしい詩だった。「レモン」は、すっぱい。切ない。その全行。
田中のことばは「肉体」である。そこには「頭」の、ではなく、「肉体」そのものの呼吸がある。読点の乱れ(?)が切ない感情そのものである。
「冬の、日。」と書こうが「冬の日。」と書こうが「意味」は同じである。冬が「夏」に変わるわけでも、「秋」にかわるわけでもない。
でも「冬の、日。」と「冬の日」は違う。
「冬の日」は単にある季節の一日だが「冬の、日。」はほんとうは「冬」ではない。「いま」は確かに冬だが、田中は「冬ではない日」、「いま」ではない時間を思い出している。読点「、」は具体的に書き直せば、「冬の、いま、こうやって過ぎ去った日々を思い出す、きょう日」ということである。読点「、」の一瞬のあいだに、その呼吸のあいだに、田中の「肉体」のなかに、過去の日々、過去の時間が駆け抜けている。
この「頭」では抱え込むことができない時間、ふっと、「息」とともに「肉体」を駆け抜けていく時間を、田中はていねいにすくい取っている。
2行目の「誰か」とは不特定の誰かではない。はっきりしている。はっきりしているけれど名前を出せない。知らないからではない。知っているから、名前を書けない。そして名前を書くときよりも書かないとき、つまり、それをぐっと「肉体」のなかに押し殺すときのせつなさ--それが「誰かのことを想って、こみあげてくる」の読点「、」であり、「いとしさに耐えられないまま、」の改行なのである。「こみあげてくる」と「いとしさ」のあいだには、読点「、」よりもはるかに遠い距離がある。空間がある。感情のうごきまわるせつなく、長い、時間がある。
それから1行あいて、2連目。ことばの呼吸はさらにゆらぐ。乱れる。「疲れるなあ」と簡単にことばにはならない。「疲れ」という名詞が、読点を挟んで「疲れる」という動詞になり、それから改行を挟んで「疲れるなあ」という嘆き(深い息)にかわる。その変化を、田中は呼吸(読点と改行)のリズムだけではっきりと描き出す。
田中のことばは、すべて「肉体」を通って出てくる。「声」そのもになっている。
「声」は正直である。「文字」は感情を隠すことができる。ところが「声」には感情がでてしまう。どんなに押し殺してみても、その押し殺したということさえ、「声」になってしまう。呼吸が、ほんのわずかな息づかいの違いが、音の高低が、あ、このひとはいつもと違うということを感じさせる。
「肉体」は無防備で、そして敏感である。だから、嘘をついてはいけない。正直であるしかないのだ。
最終連も、とても好きだ。特に、最終行。「冬のうすい、日に。」これは、文法的には正しくない。「冬のうすい」はことばになっていない。このことばだけでは「意味」がとれない。ここには省略がある。2連目に書かれたことばが省略されている。ほんとうは、「冬の、太陽の光が、うすい」なのである。「肉体」のなかに「太陽の光がうすい」が吸収されてしまっている。だから、それはことばにならず、省略して、いっきに「冬のうすい」になる。「肉体」は「頭」と違って、ことばをぐいと圧縮したり、逆にぱっとおしひろげたりする。そういう緩急というか、落差というか、変化を矛盾なく溶け込ませてしまう。
「冬のうすい」には、そういう不思議な「肉体」の呼吸があるのだが、この凝縮された呼吸は、そのままではやっぱり維持できない。そこで「冬のうすい、日に。」という読点の呼吸が入ってくる。「日。」と断定したまま終わることができず、「に」をしたがえて、ゆっくりと息が(思いが)吐き出されるのだ。
*
こんなに切ない呼吸をそのまま文字に転換できるのは、田中の耳がよほどすぐれているからだろう。敏感だからだろう。そして耳と同時に視力も(目も)敏感なのだと思う。音を耳という「肉体」だけで消化するのではなく、同時に目でもはっきりつかみとる。そういう希有な本能(ほんとうは、素質、気質、というのだろうか)があるのかもしれない。「スロー・テンポ」という作品の書き出し。
「雨ですね。/すねないで。のなかにあらわれる偶然の、不思議な音楽。それは「声」に出せば(音読すれば)すぐにわかることだけれど、その音の不思議な交錯を、田中は目でもわかるように「すね」をならべて書いている。
私は最初、音の不思議なゆらぎに、あ、いい音楽だなあ、とだけ感じていたのだが、どこに音楽の音楽らしさがあるのだろうと、くりかえし黙読し、ちょっと我慢できずに声に出して読んでみて(私は音読はしない、朗読はしない)、その瞬間に「すね」をならべて書いてあるのに気がついた。
あ、
一瞬、我を忘れるくらい驚いた。
こんなふうに書く方法があるんだ。音をくっきりと意識させる書き方があるんだ。まるで、音楽でいえば五線譜に書かれた音符を見るように「すね」と「すね」がならんでいることに気がついたのだ。
そして、思ったのだ。田中は、田中のことばは、どこまでもどこまでも「肉体」でできている、と。
きのう「うどん」について書いたとき、田中の「頭」がうどんでいっぱいになっていると書いた。このときの「頭」は、私がいつも批判的に書いている「頭」ではない。うどんでいっぱいになった「頭」は「頭」であることをやめて「肉体」になっている。その無防備な「肉体」の正直さが田中の作品の魅力だ。
「うどん」はおいしい詩だった。「レモン」は、すっぱい。切ない。その全行。
冬の、日。
誰かのことを想って、こみあげてくる
いとしさに耐えられないまま、
太陽の光がうすい。疲れ、る
なあ。傘をとられた、
その名前を口にする。
たわむれ、に。ひとに聞かれたらはずかしいけど
幸せな新聞紙、
つまらない邦楽番組。人格がどんどん
崩壊していく、鉄板焼きの脂がじゅうじゅう
散りかかる。
ピーマン。そしてナスも
身をよじるようにしながら焦げていった。
そんな遊びももう終わりなの、さ。
それでもなお、心にふとこみあげてくる
いとしさにはまだ耐えられない。
レモン、
斜めにつめたい風の中をふらふら歩いて、
冬のうすい、日に。
田中のことばは「肉体」である。そこには「頭」の、ではなく、「肉体」そのものの呼吸がある。読点の乱れ(?)が切ない感情そのものである。
「冬の、日。」と書こうが「冬の日。」と書こうが「意味」は同じである。冬が「夏」に変わるわけでも、「秋」にかわるわけでもない。
でも「冬の、日。」と「冬の日」は違う。
「冬の日」は単にある季節の一日だが「冬の、日。」はほんとうは「冬」ではない。「いま」は確かに冬だが、田中は「冬ではない日」、「いま」ではない時間を思い出している。読点「、」は具体的に書き直せば、「冬の、いま、こうやって過ぎ去った日々を思い出す、きょう日」ということである。読点「、」の一瞬のあいだに、その呼吸のあいだに、田中の「肉体」のなかに、過去の日々、過去の時間が駆け抜けている。
この「頭」では抱え込むことができない時間、ふっと、「息」とともに「肉体」を駆け抜けていく時間を、田中はていねいにすくい取っている。
2行目の「誰か」とは不特定の誰かではない。はっきりしている。はっきりしているけれど名前を出せない。知らないからではない。知っているから、名前を書けない。そして名前を書くときよりも書かないとき、つまり、それをぐっと「肉体」のなかに押し殺すときのせつなさ--それが「誰かのことを想って、こみあげてくる」の読点「、」であり、「いとしさに耐えられないまま、」の改行なのである。「こみあげてくる」と「いとしさ」のあいだには、読点「、」よりもはるかに遠い距離がある。空間がある。感情のうごきまわるせつなく、長い、時間がある。
それから1行あいて、2連目。ことばの呼吸はさらにゆらぐ。乱れる。「疲れるなあ」と簡単にことばにはならない。「疲れ」という名詞が、読点を挟んで「疲れる」という動詞になり、それから改行を挟んで「疲れるなあ」という嘆き(深い息)にかわる。その変化を、田中は呼吸(読点と改行)のリズムだけではっきりと描き出す。
田中のことばは、すべて「肉体」を通って出てくる。「声」そのもになっている。
「声」は正直である。「文字」は感情を隠すことができる。ところが「声」には感情がでてしまう。どんなに押し殺してみても、その押し殺したということさえ、「声」になってしまう。呼吸が、ほんのわずかな息づかいの違いが、音の高低が、あ、このひとはいつもと違うということを感じさせる。
「肉体」は無防備で、そして敏感である。だから、嘘をついてはいけない。正直であるしかないのだ。
最終連も、とても好きだ。特に、最終行。「冬のうすい、日に。」これは、文法的には正しくない。「冬のうすい」はことばになっていない。このことばだけでは「意味」がとれない。ここには省略がある。2連目に書かれたことばが省略されている。ほんとうは、「冬の、太陽の光が、うすい」なのである。「肉体」のなかに「太陽の光がうすい」が吸収されてしまっている。だから、それはことばにならず、省略して、いっきに「冬のうすい」になる。「肉体」は「頭」と違って、ことばをぐいと圧縮したり、逆にぱっとおしひろげたりする。そういう緩急というか、落差というか、変化を矛盾なく溶け込ませてしまう。
「冬のうすい」には、そういう不思議な「肉体」の呼吸があるのだが、この凝縮された呼吸は、そのままではやっぱり維持できない。そこで「冬のうすい、日に。」という読点の呼吸が入ってくる。「日。」と断定したまま終わることができず、「に」をしたがえて、ゆっくりと息が(思いが)吐き出されるのだ。
*
こんなに切ない呼吸をそのまま文字に転換できるのは、田中の耳がよほどすぐれているからだろう。敏感だからだろう。そして耳と同時に視力も(目も)敏感なのだと思う。音を耳という「肉体」だけで消化するのではなく、同時に目でもはっきりつかみとる。そういう希有な本能(ほんとうは、素質、気質、というのだろうか)があるのかもしれない。「スロー・テンポ」という作品の書き出し。
こんな雨の日はスローテンポで踊りたい。
雨ですね。
すねないで。
「雨ですね。/すねないで。のなかにあらわれる偶然の、不思議な音楽。それは「声」に出せば(音読すれば)すぐにわかることだけれど、その音の不思議な交錯を、田中は目でもわかるように「すね」をならべて書いている。
私は最初、音の不思議なゆらぎに、あ、いい音楽だなあ、とだけ感じていたのだが、どこに音楽の音楽らしさがあるのだろうと、くりかえし黙読し、ちょっと我慢できずに声に出して読んでみて(私は音読はしない、朗読はしない)、その瞬間に「すね」をならべて書いてあるのに気がついた。
あ、
一瞬、我を忘れるくらい驚いた。
こんなふうに書く方法があるんだ。音をくっきりと意識させる書き方があるんだ。まるで、音楽でいえば五線譜に書かれた音符を見るように「すね」と「すね」がならんでいることに気がついたのだ。
そして、思ったのだ。田中は、田中のことばは、どこまでもどこまでも「肉体」でできている、と。
スウィートな群青の夢田中 庸介未知谷このアイテムの詳細を見る |