詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」

2008-10-27 11:06:26 | その他(音楽、小説etc)
「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」(新国立美術館、2008年10月04日-12月14日)

 10月24日、25日に見た。この会場で私が行き来したのは、ドラ・マール、マリー=テレーズを描いた4点が展示されたコーナーである。ドラ・マールとマリー=テレーズが2枚ずつあり、それをはさむようにして「窓の前に座る女」と「横になって本を読む女」がある。さらに「頬杖をついた女の頭部」がある。2枚の名前がはっきりしている肖像がのほかの女は誰なのか。
 「横になって本を読む女」は、私にはマリー=テレーズに見える。目の形が「肖像」と同じである。ブルーを基調とした静かな色の変化が「肖像」に共通しているからである。ドラ・マールの場合は暖色が強烈だし、コントラストも強烈である。右目(向かって左側の目)が切れ長で、つり上がっているのもマリー=テレーズの肖像に共通する。「頬杖をついた女の頭部」の右目は逆に垂れているからドラ・マールかもしれない。(鉛筆で描かれているので、色彩を基準にできない。)
 「窓の前に座る女」は二人が混じり合って感じられる。ピカソは絵のなかで二人を融合させようとしているかもしれない。
 この絵では向かって左側の目が横からとらえられている。向かって左側と書いたのは、その目の左側に横向きの鼻があり、見ようによってはそれは左目とも見えるからである。その目は、ややつり上がり気味である。そして、その目がある顔はブルーを基調にしているのもマリー=テレーズに共通する。
 一方、顔の左半分(絵の右半分)はドラ・マールに感じられる。目はたれ気味である。顔の基調の色が黄色なのもドラ・マールに共通する。
 組み合わさった手も、右手はブルー、左手は黄色と分かれている。
 どうしても、そこには「1人」ではなく「2人」の女性がいるように見えるのである。
 この時期(1937年ごろ)ピカソは、ドラ・マールとマリー=テレーズの2人の女性を愛していたのだろう。どちらをより愛していたか、ということはいえなくて、「2人」いることが大切だったのだろう。「2人」いることで何かが活性化する。暖色と寒色。横向きの目と正面の目。つり目とたれ目。反対のものが出会うとき、それを調和させるためには何かが必要だ。いままでの基準ではないものが必要だ。--調和、とは書いてみたが、それはほんとうは調和ではなく、葛藤のようなものかもしれない。
 葛藤があるから、いま、ここ、を否定しに、いま、ここではないどこかへたどりつけるのだ。もちろん、調和ではたどりつけるかもしれないが、調和ではたどりつけないもっと破壊的なもの、破滅的なもの--破壊し、破滅したあとに、やっとはじめてあらわれうるような生々しいもの。それをピカソは探しているようにも見えるのである。愛の、その瞬間においてでさえも。
 最初に、ピカソは絵のなかで2人を融合させようとしているのかもしれない、と書いたが、ほんとうは逆かもしれない。いっしょに描くことで、それが「一体」であるのに、激しく「一体」であることを拒絶している状態を描こうとしたのかもしれない。--これは、たいへんな矛盾である。青と黄色という正反対の色をつかいながら、組み合わせてしまうと、どこかで「美」が生まれる瞬間がある。破壊のはずが「美の誕生」にかわる。そして、ここにピカソの基本的な秘密があるようにも思えるのだ。
 ピカソは何もかもを破壊する。破壊しつづける。しかし、その瞬間に、どうしようもなく美が誕生してしまう。これはピカソにとって喜びであるのか、それとも悲しみであるのか。わからないが、そういうわからないもの、わからないまま、それでも動いて行ってしまうものが「いのち」かもしれない。

 私はピカソ狂いである。ピカソ中毒である。なぜ、ピカソに狂い、ピカソに中毒になってしまうかといえば、そこに安定がないからだ。動きしかないからだ。動きにひっかきまわされ、揺さぶられ、酔ってしまうのである。どうなっしまうのかわからない気持ち悪さと、どうなってもかまわないという気持ちよさがいっしょにやってくる。笑ってしまう。ドラ・マールとマリー=テレーズの肖像の間を行き来しながら、なぜ人間はひとりではないんだろうという不思議なことを感じた。愛するひと、それがなぜドラ・マールとマリー=テレーズという2人の姿でこの世界に存在するのか。なぜ「1人」として存在しないのか。--ドラ・マールともマリー=テレーズとも関係ない、まったく別の次元のピカソの欲望が引き起こす混乱が、私を中毒にしてしまう。何も考えられない。ただ、絵の間をさまよい、あ、この色が美しい、この線がいいなあ、この目つきにひかれるなあ、と、それまでいろいろ考えたこと(目の形とか向きとか、基調の色彩とか)をすべて忘れて、あっちふらふら、こっちふらふら、という状態になってしまうのである。すべての瞬間に、「いのち」が誕生する輝きのようなものを感じ、夢中になる。私の感じていることは錯覚かもしれない--だからこそ、中毒、と私は私に言い聞かせる。

 ピカソの作品には叩いても壊れない「いのち」がある。強い「いのち」がある。それはブルーの時代の作品にもあるが、年をとるとともに強まっていく。そんな感じがする。



 ピカソの不思議さは、その作品が絵(平面作品)だけにとどまらず、立体にもおよぶところである。立体でもピカソはひたすら何かを壊している。壊したその瞬間に誕生する美をつかみ取ってくる。
 今回展示されている立体作品のなかでは「雌ヤギ」がいちばん好きだ。骨組みにつかった籠や板、棒などがむきだしのまま強烈な線をつくっている。生きているいのちというのはどこかにそういう剛直なものをもっているのだ。そのことを感じさせる。肥え太った腹、はりつめた乳房、そして。ぱっくりと口を開いた陰部。「陰部」と呼ぶのがはずかしくなるくらいの、ずぶとい「いのち」。このヤギ、これで生きているんだ。これで生きていくためには、やっぱり叩いても折れない剛直な骨が必要だ。鉄や、板や、棒で補強した肉体が必要だ、と納得してしまう。
 彫像をぐるーっと回って、なんだこのごつごつさ加減は、と思いながら、ぱっくり開いたヤギの陰部に笑いころげる。右の目と左の目でまったく違う世界をみているヤギの思想の深さに触れる。ヤギの悲しみと喜びと、いのちのたくましさに触れる。ヤギは、もうヤギではない。完璧な芸術である。

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愛敬浩一「古管」

2008-10-27 11:05:54 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「古管」(「東国」139 、2008年09月30日発行)

 愛敬浩一「古管」は通勤のとき見た風景を描いている。その後半、

その運転手が
笛を吹いているのだ
まるで
田舎の神社の
神楽殿の上で横笛を吹いている人のような感じで
横笛を吹いているのだ
音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが
私の耳の奥から
音は
やって来た
柔らかく幅のある中間音程が
高くもなく
低くもなく
私をどこへ連れて行ってくれるかのような
古管の音が
聞こえて来た

 すべての行が好き、というのではない。どちらかというと不満がたくさんある。それでも、この詩について書いてみたかった。1行、たまらなく好きな行がある。

やって来た

 「聞こえてきた」「響いてきた」ではなく「やって来た」。あ、いいなあ。遠くからくる感じがする。「遠い」といっても自分の肉体のなかだから「距離」的には遠くない。その遠くない距離を「遠く」と感じさせる何か。
 不思議な正直さが、ここにはある。
 正直さは、実は、それに先だつ行によって準備されている。

音は聞こえなかったが
いや、聞こえるはずもないのだが

 これは単なる事実の説明のようであって、そうではない。「慣用句」に溺れていく意識を、ぐいと押しとどめる。「いや、聞こえるはずもないのだが」としっかり事実を言う。そのまっとうさが愛敬の「慣用句」の感覚を洗い流す。そして、

やって来た

という行が動きだす。いいなあ。





夏が過ぎるまで―詩集
愛敬 浩一
砂子屋書房

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リッツォス「証言A(1963)」(7)中井久夫訳

2008-10-27 09:25:29 | リッツォス(中井久夫訳)
鋳型   リッツォス(中井久夫訳)

目を閉じて、あの夏のことを思えば、
思い出すのは彼の指輪からの金色の霧と暖かい感覚ばかり。
それに、柳の樹の後ろにちらりと見えた
若い農夫の裸の陽に灼けた広い背中からも。
午後二時だった。
彼が海から戻る途中。あたり一面、焦げた草の匂いがしていた。
同じ時、ボートから笛が聞こえた。また蝉も鳴いていた。
彫像が出来たのは、むろん、ずっと後のこと。



 書かないことの不思議さ。書かないことによって浮かび上がってくる詩。「彫像」とはなんの、だれの、彫像か。ここでは具体的には何も書いていない。
 私には「彼」の彫像のように思える。恋人の彫像である。夫、かもしれない。「指輪」ということばがあるから。--指輪の至福、それは、あの夏のことだった。
 彼との至福のはじまりの一瞬。しかし、女は(この詩の主人公は女である、と私は思う)、彼ではなく、ほかの男の裸を見ている。背中のたくましさを見ている。それを見ながら、しかし、純粋に農夫の背中をみているのではなく、いま、そこでは隠されている彼の裸もみている。--結婚式の、その、奇妙な色っぽさ。
 リッツォスは、こういう情景を、やはり「こころ」を描写せずに、視線が見たものを「カメラ」のように感情を排除しながら提出する。書かれていないから、「主人公」のこころではなく、読者の(つまり、私の)こころが、書かれていないこころそのものとして動く。私が感じたものが、「主人公」のここころになるのだ。
 普通はていねいに描写された心理が、読者のこころのなかに入り込み、読者のこころをかたちづくる。
 リッツオォスは逆なのだ。描写しない。そこに描写がないから、読者は自分の思いをそのなかに投げ入れ、読者自身の力で登場人物に重なる、登場人物を乗っ取ることになる。登場人物は何も見ない。読者が登場人物の変わりに、心情で染った情景を見るのである。
 途中の、「午後二時だった。」という、すべてを切って捨てたような断定が、とても美しい。きのう読んだ「正午」の「構うものか。」と同じように、それは視点が方向転換する時の起点になっている。





徴候・記憶・外傷
中井 久夫
みすず書房

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