詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 橋本治『夜』

2008-10-07 12:06:24 | その他(音楽、小説etc)
 橋本治『夜』(集英社、2008年06月30日発行)

 橋本治の文章の特徴は、わかっていることとわからないことを非常に明確に意識することである。小説の場合でも同じである。
 「暮色」は男が女をつくって家を出ていく話である。女と娘が家に残される。その母と子の会話。そして、それにつづく娘の描写。

「だから、どう思うのよ?」
「どうってなにを?」
「おとうさんがあんなことして--」
「あんなこと」がどんなことなのか、加那子には具体的に分からない。
「あんなことって、なによ?」
「あんた、お父さんのこと嫌いじゃないの? いやじゃないの?」
 加那子は、どうやら事態の進展のしかたに気がついた。誰も、具体的なことは教えてくれない。具体的なことはなにも分からず、ただ「事実」だけがあって、それをどう判断するか以外の権限が、加那子には与えられていない。誰もなにも教えてくれない。おしえてくれないのに、それはもう「動きがたいような事実」になっている。なにがどうなっているのかわからないのに、それで定まってしまうような「事実」というものはあるのだろうか。

 「事実」というものがある。そして、その「事実」には分かる部分と分からない部分がある。分かる部分があり、一方で分からない部分があるものが「ひとつ」である。そのことをめぐって、こころは、加那子は揺れる。
 橋本治は、この「分かる部分があり、一方で分からない部分があるもの」が「ひとつ」であることを強調するとき、括弧記号「 」でくくる。「 」でくくられたものは、いつも単純なことばである。だれもが知っていることばである。そういうもののなかに、暮らしの「思想」がつまっている。わかっているものと、わからないものを同居させたまま、動いている。
 橋本治は、そのわかっているものと、わからないものの前で主人公に考えさせるのである。わかっているものと、わからないものは「矛盾」であり、その「矛盾」のなかには、何か、まだ言語化されていないものがある。その言語化されていないものを、少しずつ暮らしを、行動を追いながらつきつめていくのが「小説」である。

 その追いつめているものは先に引用したような「事実」もあるが、もっと細部にもある。そういうものを橋本治はとてもつよく認識している。「暮色」の最初に夕暮れの描写が出てくる。夕暮れを--

 それを、「美しい」と思うようになったていたのは、いつの頃からだろう。三十年も前のことなのに、消えて行った夕暮れの美しい色が、まだ胸の中に残る。(略)
 なぜ、それを「寂しい」とおもわなかったのかは分からない。ただ、美しかった。

 「美しい」と「寂しい」は、どこかでつながっている。「ひとつ」になっている。そのことを主人公は知っている。でも、分かってはいない。そういうことは、人間の暮らしのなかには無数にある。その一つずつを、橋本治は括弧「 」に入れて、みつめる。
 「知る」と「わかる」の違いの中を、橋本治はゆっくりと、ていねいに入っていく。

 主人公は父が家を出て行ったことを知っている。どうやら、それには女が関係していることも知っている。そのことに対して母が恨みを抱いていることも知っている。知ってはいるけれど、「わからない」。「わからない」とは、別のことばでいえば「納得できない」ということでもある。「わからない部分」が「わかった」にかわったとき、知っていることは「納得」にかわる。
 いや、ここで知っていると書いたことは、ほんとうは「気づいている」ということなのかもしれない。人間には、気づいている、分かっている、知っている、という意識の動きがあり、それは微妙にからみあっている。その微妙な世界へ少しずつ分け入っていくのが小説なのだ。
 最初に引用した部分のつづき。

 父が何を考えているのかは分からない。父親が以前に於いてなにをして、今なにをしているのか。なにをしようとしているのかも分からない。母親がなにを考えているのかは分かるような気がする。なにもなかったことにしたいのだ。いったい、母親はなにをどれだけ知っているのか?
 分からない。
 ただ母親は、自分の夫に嫌悪と怒りを感じていて、そのことを肯定しろと、娘に迫っているのだ。

 ここに書かれている「肯定」とは「受け入れること」と同じである。「肉体」で「受け入れる」。だきとる。それが肉体になじむまで、それを抱きつづける。
 「頭」は分かっているものと、分からないものを区別する。区別してしまう。しかし、肉体はそういうものを区別せずに抱きしめることができる。人間は、そんなふうに奇妙ないきものである。橋本治は、その奇妙さをどこかで「肯定」している。
 そして、「肯定」されているからこそ、そのことばが「わかる」「わからない」の間を、どこまでもどこまでも追いつめて行っても、無理がない。「頭」の窮屈さがなく、生きている人間のあたたかさが滲み出てくる。そこが魅力だ。






橋本 治
集英社

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