岩崎宏美「思秋期」
先日(かなり前になるが)、テレビで岩崎宏美が「思秋期」を歌っていた。30年以上前の曲になると思う。そのころは気がつかなかったが、不思議なことに気がついた。(気づくひとは30年以上前に気づいていたと思うけれど。)
前半、もの悲しげな感じで歌がはじまるのだが、後半、「ひとりで紅茶のみながら……」、そして最後の「無邪気な春の……」と曲が進にしたがって、そのもの悲しい感じが、澄みきった感じにかわる。「ひとりで」で少し透明に、そして「無邪気な」でもう一歩進んで透明になり、最後の「秋の日」で完璧に透明になる。
へえー、こんなきれいな曲だったのか、と感心してしまった。岩崎宏美がうまくなったのかな?
CDを探してきて聞いてみたが、やはり同じだった。
好奇心を発揮して、ちょっと調べてみた。阿久悠作詩、三木たかし作曲。「足音もなく……」はA♯ではじまり、「ひとりで……」はBではじまり、「無邪気」はCではじまる。半音ずつ旋律が上がっているのだ。
私は音痴のせいか、この半音の区別がつかない。メロディーラインが同じなので、同じ音を声の色の変化だけで歌っているのだと思い込んでいた。
歌手なのだから、半音ずつの移調はなんでもないことなのかもしれないが、その半音あがるごとに透明になっていく感じは、しかし、おもしろい。三木たかしは、岩崎宏美の声がどの調のときいちばん透明になるかを把握していて、それにあわせて作曲したのだろうけれど、その期待通りに歌う歌手というのも、いいものだ。
一方、不思議なことも思った。音楽には調がある。移調によって曲の感じがかわる。そんな具合に、文学(詩)でも移調はあるのだろうか。もし、あるとすれば、それはどんな具合にしておこなわれるのだろうか。
たとえば、きょうの「日記」で取り上げた原子修の「バラード 憲法の木」は、私の感覚でいうと、
ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき
の部分は、岩崎宏美が歌う「ひとりで紅茶……」、「無邪気な春の……」という感じの移調のように、とてもこころを刺激される。ことばにあわせて、こころがすーっと動いて移管時がする。
「ういういしい」→「みずみずしい」、「さみどり」→「まみどり」ということばの動きが「移調」のような効果をあげるのかもしれない。こういう「効果」が含まれているから、原子の詩を「バラード」そのもの、「歌」のように感じたのかもしれない。
原子はとても耳のいい詩人なのだろう。ただ、その耳のよさが完全に全体を統一しているかといえば、そうでもないような気がする。「地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの」というような行の、音の悪さ(と、私には感じられる)は「不協和音」と呼ぶには、何か、抵抗がある。「不協和音」も「和音」である。原子の音は、そこでは「和音」になっていない感じがする。
(この文章は、下の日記の補足です。)
先日(かなり前になるが)、テレビで岩崎宏美が「思秋期」を歌っていた。30年以上前の曲になると思う。そのころは気がつかなかったが、不思議なことに気がついた。(気づくひとは30年以上前に気づいていたと思うけれど。)
前半、もの悲しげな感じで歌がはじまるのだが、後半、「ひとりで紅茶のみながら……」、そして最後の「無邪気な春の……」と曲が進にしたがって、そのもの悲しい感じが、澄みきった感じにかわる。「ひとりで」で少し透明に、そして「無邪気な」でもう一歩進んで透明になり、最後の「秋の日」で完璧に透明になる。
へえー、こんなきれいな曲だったのか、と感心してしまった。岩崎宏美がうまくなったのかな?
CDを探してきて聞いてみたが、やはり同じだった。
好奇心を発揮して、ちょっと調べてみた。阿久悠作詩、三木たかし作曲。「足音もなく……」はA♯ではじまり、「ひとりで……」はBではじまり、「無邪気」はCではじまる。半音ずつ旋律が上がっているのだ。
私は音痴のせいか、この半音の区別がつかない。メロディーラインが同じなので、同じ音を声の色の変化だけで歌っているのだと思い込んでいた。
歌手なのだから、半音ずつの移調はなんでもないことなのかもしれないが、その半音あがるごとに透明になっていく感じは、しかし、おもしろい。三木たかしは、岩崎宏美の声がどの調のときいちばん透明になるかを把握していて、それにあわせて作曲したのだろうけれど、その期待通りに歌う歌手というのも、いいものだ。
一方、不思議なことも思った。音楽には調がある。移調によって曲の感じがかわる。そんな具合に、文学(詩)でも移調はあるのだろうか。もし、あるとすれば、それはどんな具合にしておこなわれるのだろうか。
たとえば、きょうの「日記」で取り上げた原子修の「バラード 憲法の木」は、私の感覚でいうと、
ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき
の部分は、岩崎宏美が歌う「ひとりで紅茶……」、「無邪気な春の……」という感じの移調のように、とてもこころを刺激される。ことばにあわせて、こころがすーっと動いて移管時がする。
「ういういしい」→「みずみずしい」、「さみどり」→「まみどり」ということばの動きが「移調」のような効果をあげるのかもしれない。こういう「効果」が含まれているから、原子の詩を「バラード」そのもの、「歌」のように感じたのかもしれない。
原子はとても耳のいい詩人なのだろう。ただ、その耳のよさが完全に全体を統一しているかといえば、そうでもないような気がする。「地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの」というような行の、音の悪さ(と、私には感じられる)は「不協和音」と呼ぶには、何か、抵抗がある。「不協和音」も「和音」である。原子の音は、そこでは「和音」になっていない感じがする。
(この文章は、下の日記の補足です。)
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