詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩崎宏美「思秋期」

2008-10-18 09:29:52 | その他(音楽、小説etc)
岩崎宏美「思秋期」

 先日(かなり前になるが)、テレビで岩崎宏美が「思秋期」を歌っていた。30年以上前の曲になると思う。そのころは気がつかなかったが、不思議なことに気がついた。(気づくひとは30年以上前に気づいていたと思うけれど。)
 前半、もの悲しげな感じで歌がはじまるのだが、後半、「ひとりで紅茶のみながら……」、そして最後の「無邪気な春の……」と曲が進にしたがって、そのもの悲しい感じが、澄みきった感じにかわる。「ひとりで」で少し透明に、そして「無邪気な」でもう一歩進んで透明になり、最後の「秋の日」で完璧に透明になる。
 へえー、こんなきれいな曲だったのか、と感心してしまった。岩崎宏美がうまくなったのかな?
 CDを探してきて聞いてみたが、やはり同じだった。

 好奇心を発揮して、ちょっと調べてみた。阿久悠作詩、三木たかし作曲。「足音もなく……」はA♯ではじまり、「ひとりで……」はBではじまり、「無邪気」はCではじまる。半音ずつ旋律が上がっているのだ。
 私は音痴のせいか、この半音の区別がつかない。メロディーラインが同じなので、同じ音を声の色の変化だけで歌っているのだと思い込んでいた。
 歌手なのだから、半音ずつの移調はなんでもないことなのかもしれないが、その半音あがるごとに透明になっていく感じは、しかし、おもしろい。三木たかしは、岩崎宏美の声がどの調のときいちばん透明になるかを把握していて、それにあわせて作曲したのだろうけれど、その期待通りに歌う歌手というのも、いいものだ。

 一方、不思議なことも思った。音楽には調がある。移調によって曲の感じがかわる。そんな具合に、文学(詩)でも移調はあるのだろうか。もし、あるとすれば、それはどんな具合にしておこなわれるのだろうか。
 たとえば、きょうの「日記」で取り上げた原子修の「バラード 憲法の木」は、私の感覚でいうと、

ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき

 の部分は、岩崎宏美が歌う「ひとりで紅茶……」、「無邪気な春の……」という感じの移調のように、とてもこころを刺激される。ことばにあわせて、こころがすーっと動いて移管時がする。
 「ういういしい」→「みずみずしい」、「さみどり」→「まみどり」ということばの動きが「移調」のような効果をあげるのかもしれない。こういう「効果」が含まれているから、原子の詩を「バラード」そのもの、「歌」のように感じたのかもしれない。
 原子はとても耳のいい詩人なのだろう。ただ、その耳のよさが完全に全体を統一しているかといえば、そうでもないような気がする。「地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの」というような行の、音の悪さ(と、私には感じられる)は「不協和音」と呼ぶには、何か、抵抗がある。「不協和音」も「和音」である。原子の音は、そこでは「和音」になっていない感じがする。

 (この文章は、下の日記の補足です。)



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原子修「バラード 憲法の木」

2008-10-18 01:01:34 | 詩(雑誌・同人誌)

原子修「バラード 憲法の木」(「極光」10、2008年09月20日発行)

 原子修「バラード 憲法の木」はタイトルどおりの詩である。多くのひとが想像するだろうことをそのまま書いている。つまり、戦争に傷つき、その反省から生まれた「第九条」を掲げる憲法を一本の木になぞらえて歌っている。バラードとあるように、それはたしかに「歌」になっている。

地獄の焔(ほむら)を耐えぬいたぼくの絶望そのままの
黒くて固くてちいさな木の実
でも
その内部でいのちの火はほろほろと焚いている
ひと粒の小さな木の実
ぼくの心のなかの
すぐには忘れられない焼け跡の
まだ戦火のほとぼりさめやらぬ土に
ぼくがそっと埋めてあげた
ひと粒の実

ぼくの心のなかの
たやすくは忘れられない焼け跡で
飢えにあえぐぼくの
人知れずながす涙のしずくをのんで
かすかな黄金の芽がほころび

じっと見守るぼくのまなざしの光を吸って
ういういしい茎がさみどりに伸び
みずみずしい双葉がまみどりにひらき
やがて すっくりと立ちあがった一本の幼い木

 この詩には何度も「ぼく」が登場する。けれどその「ぼく」はきのう読んだ渡辺玄英の「ぼく」のようには増殖はしない。「ぼく」と繰り返すのは、「ぼく」にもどるためであって、「ぼく」から出て行くためではない。「ぼく」は絶対にかわならない。
 かわること--ことばを通してかわっていくことが、「文学」の姿だとすれば、たぶん原子の書いていることばは「文学」ではない。「現代文学」「現代詩」ではない。
 しかし、たぶん、そういう見方は一面的すぎる。

 原子はかわらない。同じ「ぼく」でありつづけ、その同じ「ぼく」を起点にして、「木」がかわっていく。
 涙をのんで、黄金の芽を吹き、さみどりの茎になり、まみどりの双葉になる。その変化にすべてをかける「ぼく」がいる。「木」をみつめる「ぼく」はかわらないが、そのまなざしのなかで「木」がかわる。--そのとき、実は、「ぼく」は育っている。
 それはゆっくりであるから、たぶん、目には見えない。目には見えないゆっくりしたスピードで、融合する。「ぼく」と「木」は区別がつかなくなる。「ぼく」ではなく、「対象」になってしまうのだ。「ぼく」でありつづけることが「ぼく」ではなくなる唯一の方法なのである。原にとっては。

 これは「愛」のひとつの形である。

 「ぼくがそっと埋めてあげた」の「あげた」。その、不思議な響が、私は、この詩では特に好きだ。そっと身を引いた「距離」が好きである。
 「ぼく」はあくまで、何かに対して一歩ひいている。「ぼく」の領域にとどまり、踏み出さない。踏み出して、対象をつくりかえようとはしない。自分の思うままにしようとはしない。ただ、それが、それ自身の力で育っていくのをみつめている。
 みつめながら「さみどり」を学ぶ、「まみどり」を学ぶ。みどりには、そんなふうに変化があることを知る。それは「ぼく」から出て行っていないように見えて、ほんとうは「ぼく」の大きな変化だ。


受苦の木―原子修詩集
原子 修
書肆青樹社

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