詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言A(1963)」(6)中井久夫訳

2008-10-25 08:28:26 | リッツォス(中井久夫訳)
正午   リッツォス(中井久夫訳)

服を脱いで海に飛び込んだ。午後三時。
水は冷たいが、構うものか。
浜は見渡す限りしんとして、ひと気がない。荒れた浜だ。遠くの家は戸を閉めて。
世界はきらきら光る。靄が立ち昇る。通りの果てに荷車が消える。郵便局の屋根に半旗が。誰が死んだのかい?



 二つの世界がある。--二つの世界と書いてしまうと語弊があるかもしれないが。
 ひとつは、海と若者。そして、もうひとつはその若者が見つめる世界。
 映画でいうと、まずカメラは「海と若者」をとらえる。そして、そのカメラは「若者」に焦点があたったあと、「若者」を起点にしてターンする。「若者」の視線そのものになり、世界をみつめていく。
 荒れた浜。遠い家。遠くへつづく道。荷車。その動きを若者の視線が追いかけ、郵便局の半旗にぶつかる。
 移動する視線(カメラ)。これが、リッツォスの特徴のひとつである。

 中井の訳でとてもおもしろいのは、2行目の「構うものか。」である。
 いま書いたように、カメラはまず海と若者をとらえ、若者に焦点があたったあと、そこから反転する。若者の視線になる。カメラが若者の内部に入り込んだ感じだ。視線の転換を一瞬の内にやってしまうのが「構うものか。」ということばだ。若者の内面の声だ。内面の声がかかれた瞬間、カメラは若者の内面にはいる。そして、「構うものか。」という声のように、世界を切り捨てるような感じ、自分を中心にした強い感情のまま、動いていく。「構うものか。」はとても大切なことばなのだ。
 中井は最初、これを「構わない。」と訳していた。(私がテキストにしているのは、中井がワープロで打ち込んだ訳のコピーである。)中井は、いったん「構わない。」と訳している。「意味」はかわらない。しかし、「構うものか。」と「構わない。」では印象が違う。「構うものか。」の方が乱暴な、強い印象がある。強い感情を印象づける。
 この「強い感情」が、この詩では、とても大切なのだ。
 すべてをほししままにする若者の強い欲望。それが、何もない夏の浜を乱暴につきっきる。どこまでも突き進んで行こうとする。その乱暴な、力にあふれた視線が半旗--死を知らせる旗にぶつかる。
 この衝撃。詩は、この瞬間にある。
 そして、その衝撃を強いままに引き出すのが「構うものか。」という口語の訳なのだ。中井久夫は、口語を取り込んで日本語を組み立てるのが非常にうまい。的確だ。口語によって、詩がいっきに活発に動きはじめる。この訳詩は、そのひとつである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パトリス・ルコント監督「ぼくの大切なともだち」(★)

2008-10-25 08:27:07 | 映画
監督 パトリス・ルコント 出演 ダニエル・オートゥイユ、ダニー・ブーン、ジュリー・ガイエ

 私はこの映画がどうにも好きになれない。映像の愉悦がない。
 たとえば「髪結いの亭主」。男が「髪結いの亭主」になりたいという夢を持っている。それは口に出すとみっともない夢かもしれない。こどものとき、主人公は「髪結いの亭主になりたい」と言って、父親から殴られる。男なら、そんな夢なんか持つな、もっと大志を抱け、ということだろう。
 しかし、叱られても、ばかにされても、男はその夢を実現してしまう。しかも、「髪結い」が色っぽい。美人である。やさしい肌の感触、甘い(?)匂い。そのなかで、男はうっとりと生きているよろこびを感じる。アラブの音楽にあわせて(つまり、ここではない、異国の、ということだ)、ただただ気持ちよさそうに踊る。そのシーンが非常に美しい。男のよろこびが空気にとけだしてゆく。光になじんでゆく。
 いいなあ。
 「髪結いの亭主」になって、そんなふうに、何もせず、自分の愉悦にひたるのはどんなに気持ちがいいだろう。そして、そういう気持ちのいい感じをひとに見せつけるのはどんなにしあわせなことだろう。そこには、「意味」を超越した、ふしぎな美しさがあった。
 「仕立屋の恋」にも、ふしぎな色っぽさがある。ちびで、禿で、中年。その男が美しい女に恋をする。窓際で、そっと女に近づいて行く。そのとき、窓から入ってくる光のなかで、女の首筋が、耳が、肩が、やわらかな髪が匂う。近づくと危険--というのは、女が危険な女であるという意味ではない。拒絶される危険--そういうものが、ふわっと匂ってきて、男はぎりぎりのところで踏みとどまる。その悲しみのように、音楽が(アナログのレコードのやわらかな響きよ)流れる。
 いいなあ。
 こいうどきどきを味わってみたいなあ。
 「意味」を超えて、愉悦へ誘う映像の甘い甘い感じ。それがルコントの映画にはあった。私はそういう甘ったるい、軟弱な映像が好きだ。自分でそういう映像を撮るとしたらきっと恥ずかしい。その恥ずかしさを超越して、そこで誘っている甘い甘い愉悦--それが好きだ。

 それが、今回の映画にはない。
 強いてあげれば、「ミリオネラ」のクライマックスで、主人公の二人が番組とは無関係に逸脱していくシーンがそれにあたるのかもしれないが、なんだかなあ。そこには、愉悦とは逆の「理」がある。「感」ではなく、「理」。「理性」でうごく人間。そのとき、「肉体」が悲しむ。その感じが、まあ、魅力的といえばいえるんだろうけれど、これを「説明」しているから、私は、とてもいやな気分になったのだと思う。テレビのディレクターがモニタールームへ駆け込んできて「視聴率が突然アップした」とかなんとか。こんな「説明」をしないと、二人の演技、そのやっていることが伝わらない--そう考えるルコントの意識によって、映像がずたずたになっている。そう思った。

 ストーリーそのものも嫌いだ。最初から不幸に見えるダニー・ブーンもよくない。私には彼が少しも「シンパティク」に見えない。滲み出てくる明るさがない。不幸な二人が慰め合う--結果的にそんな感じになってしまう友情というのは、なんだかとても気持ちが悪いのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする