詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳(1)

2008-10-20 11:27:34 | リッツォス(中井久夫訳)

 リッツォス「証言A(1963)」中井久夫訳は「象形文字」同人誌版、およびインターネット版で紹介してきたが、まだ紹介していないものもある。この「日記」であらためて手元にある中井の訳を紹介していく。なお、中井の訳の著作権は中井久夫に属します。転写(コピー)する場合は、かならず中井久夫の了解をとってください。

 *以降の文章は、私の感想です。





 彼女は鎧戸を開けた。シーツを窓枠に干した。陽の光を眺めた。
 鳥が一羽 彼女の眼を覗き込んだ。「私は独り」と彼女はささやいた。
 「でもいのちがあるわ!」。彼女は部屋に戻った。鏡が窓になった。鏡の窓から飛び出したら自分をだきしめることになるでしょう。



 短い文章のリズムにひかれる。基本的に1文に1動詞。切断された印象があるが、その切断の感じが、孤立、孤独と結びつく。「一羽」「独り」を強調する。ただし、ぷつん、ぷつんと切れながら、「意味」の連続性はしっかりしている。固く結びついている。その切断と結合の感覚が、矛盾が、後半になって「彼女」を突き動かす。切断と結合が、彼女のなかから何かを引き出す。彼女自身の力を引き出す。

 鏡が窓になった。

 詩の白眉はここにある。
 「鏡」はもちろん「鏡」である。それが「窓」になる、ということは物理的にはありえない。けれど、意識のなかでは、そういうことがある。これは「比喩」ではなく「事実」である。意識の真実である。
 切断と結合が、彼女の意識に作用し、鏡を窓に換えてしまう。
 そして、このとき、彼女はそれまでの彼女ではない。「鳥」に「なる」。鏡が窓に「なる」なら、彼女は鳥に「なる」。鳥になって、そとへ飛び出す。空へ飛び出す。
 鳥は空気を翼でおしのけて飛んでいるのではない。自分を抱きしめて飛んでいるのである。「いのち」を抱きしめて飛んでいるのだ。

現代ギリシャ詩選
中井 久夫
みすず書房

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中井久夫『臨床瑣談』

2008-10-20 10:53:53 | その他(音楽、小説etc)
中井久夫『臨床瑣談』(みすず書房、2008年10月15日第2刷発行)

 私は医学についてなにも知らない。「臨床」の話がわかるわけではない。それでも、中井久夫の『臨床瑣談』はおもしろい。おもしろいというと変だが、こころを打たれる。内容というよりも(内容ももちろんなのだが、内容そのものはどれだけ正確に理解しているかわからないので、「内容よりも」と書いてしまうのだが)、中井の文体にこころ打たれる。
 「SSM、通称丸山ワクチンについての私見」はタイトル通り、「丸山ワクチン」について書かれたものである。
 私は、たとえば次のような部分に、とてもこころを動かされる。「丸山ワクチン」について直接触れた部分ではなく、中井が専門とする精神医学について触れた部分であるけれど。

抗うつ薬が効果を発揮するのに二週間かかるといわれるのは、うつ病にはゆるやかな勾配で効果があらわれることが必要なのかもしれない。しかし、私は必ずしも二週間を要しないことをみている。あるいは、うつ病の人の(当然ともいえる)不信感の解消に必要な時間であるかもしれない。「薬ごときで動かされてたまるか」という感情があってふしぎではない。

 最後の一文が、とても気持ちがいい。
 医師なのに(医師だから、と中井はいうだろうけれど)、患者に自己を押しつけない。自分の治療法にしたがえば患者は治る、それを受け入れよ、というような態度ではない。患者それぞれが、それぞれの肉体と感情を持っている。それを動かすのは、あくまで患者の方であって、医師は、その動きにある方向性を与える、という考え方が、この文章の底にある。患者のなかで育っていく力、動いている力に目を向ける、という姿勢と言い換えてもいいかもしれない。
 何にふれた文章をとってもそうなのだが、丸山ワクチンなら丸山ワクチンで、そのワクチンのなかでどんな力が育っているのか、動いているのか、そしてその動きを性格にするために丸山がどんな工夫をしたか、ということに中井は目を向けている。存在が、存在自身で持っている力を大切にしている。

 中井は中井自身が書いた「ウイルス学実験手技マニュアル」について紹介している。手書きのガリ刷り。それがコピーされてつかわれている。「たぶん私のロンゲスト・セラーである」と中井自身が書いている。そして、マニュアルを定義して、次のように言う。

マニュアルは不器用な人間が作るもので、人の二倍試験管を割る私にはその資格が十分にあった。

 これは、人の二倍は実験をした、ということ間接的な表現だと思うけれど、その表現のなかにある「不器用な人間」ということばに、私は中井の姿勢を感じる。「不器用な人間」とは、先に書いた文章に結びつけて言い直せば、潜在的な力を正しく発揮する方法を確立していない人間ということになると思う。だれにでも力がある。その力をどうやって制御し、育てていくか。それが「マニュアル」である。自分以外の何かを利用するのではなく、自分の利用の仕方を、反省をこめてメモしたのが「マニュアル」である。
 精神科の「往診マニュアル」もコピーされてつかわれている、とも書いているが、それもやはり、どうやって自分自身を抑制し、ひそんでいる自分の力を引き出すかということが基本になっていると思う。

 だれにでも、そして何にでもそれぞれの力がある。その力について、人間が知っていることはわずかである。わずかであるけれど、それをきちんと自覚し、育てれば、とても大きなものになる。阪神大震災のとき、延焼を防いだ木について書いた文章も、別の本のなかにあったが、そういう文章も、木のなかにある力に目を向けたものである。自然のなかにもふしぎな力がある。それは人間を守ってくれる。そういう力と共存して暮らすことの大切さを教えてくれる。中井は、いつでも、どんなときでも、目に見えない力に目を向けている。かならず、自立し、育っていく力がある、と信じている。

 「丸山ワクチン」にふれた文章にもどる。患者の感情について書いた文章につづけて、次のように書いている。

 漢方薬は、漢方を信用していない医者が出しても効かないという。逆に、北里大学東洋医学研究所を先日訪問したが、非常によく治るそうである。方々の医師を巡礼した挙句に最後の望みを託するところだからという。ブラセボー効果は医学界では「幻の足し算」とみなされがちのようだが、「服薬にともなう生体反応のマイナス面を打ち消すことによって自然回復力を促進する」と考えてみてもよいのではないだろうか。その中には心理的要因とともに生理的要因もあると私は思う。

 「自然回復力」ということばを中井はつかっている。「自然」の「力」。だれにでも「自然」の「力」がある。ただ、私たちは、その「自然」の状態をよく知らない。その「自然」のなかにひそむ「力」を知らない。その「力」は「回復力」であることもあれば、もっとほかのことである場合もあるだろうが、ともかく人間には(存在には)、それぞれの「力」というものがある。それを育てることがいちばんたい大切なのだと中井は考えているように、私には感じられる。

 それぞれの存在のなかにある「自然」の「力」を鍛え上げ、強靱にしたものが「技術」であるだろう。「技術」にするための方法(たどるべき道のり)が「マニュアル」だろう。そう考えると、中井は、ただひたすら「自然」の「力」をしっかりしたものに育てようとしている、そのことにこころを砕いていることがわかる。
 そういう視線を、あらゆる文章に感じ、こころ打たれる。



 中井はギリシャの詩人リッツォスの詩をたくさん訳している。その訳が私の手元にある。一部はすでに同人誌「象形文字」に掲載した。「象形文字」のホームページにも紹介しているが、あらためてこの日記でも紹介して行きたい。中井の訳に、私の感想を付け加える形で。
 


臨床瑣談
中井 久夫
みすず書房

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