詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「うざったい」

2008-10-04 01:09:15 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「うざったい」(「朝日新聞夕刊」2008年10月03日)

 ことばにするのは自分の体験でなくてもかまわない。自分(私)というものは、なくてもかまわない。そういうものがなくても、ことばはことばとして存在し、動くことができるという体験を谷川は存分に持っている。--と、きのうの「日記」に書いた。そこのこを、あらためて思った。
 「うざったい」は中学生の女の子の思いを語っている。その全行。

好きってメール打って
ハートマークいっぱい付けたけれど
字だとなんだか嘘(うそ)くさい
心底好きじゃないから?

でも会って目を見て
キスする前に好きって言ったら
ほんとに好きだって分かった
声のほうが字より正直

だけど彼は黙ってた
そのとたんほんの少し私はひいた
ココロってちっともじっとしてないから
ときどきうざったい

 谷川俊太郎の署名がなかったら、中学生の詩そのものである。

 いや。
 たぶん、中学生が詩を書いたら、こんな具合にはならない。こんなふうに思うかもしれないが、こんなふうにことばを書くことはできない。
 ことばはいつでも、ずーっと遅れてやってくる。
 体験があり、こころがあり、どうにもならない感じがあって、それをかかえつづけて、ある日、突然、こころがことばになる。こころは、それまで、ずーっと待っていなければならない。ところが、こころは、そんなふうには待っていてはくれない。どこへ動いていいかわからず、それでも、ともかく動いてしまう。ことばを待ちきれない。

 そのときの「空気」を谷川はだれよりも正確につかみ取る。それを自分のものとして呼吸してしまう。
 「うざったい」とは、他人を批判してつかうことばである。
 でも、ときどき、それは他人ではなく、自分のことだったりする。自分を他人の中に見つけて、「うざったい」と思うのだ。そういう「批判」(言語批判)が、ことばを「詩」にする。こんなことは、こころにことばが追いついて、さらにことばがこころを追い越して、そのことばをもう一度こころが見つめなおさないと、起きない。
 中学生には、たぶん、永遠に最終行の「うざったい」は書けない。書けるとしたら、この谷川俊太郎の詩を読んだあと、はじめて可能なことである。

 ことばはその国民が到達した思想の最高点であるというようなことを三木清は言っていたが、そのことばを思い出す。
 「うざったい」は谷川俊太郎の、この詩によって「詩」になった。思想になった。少女のココロ。その生々しい思想に。

 それにしても。

 私は長い間、谷川俊太郎は、ことばを「書く」ひとだと思っていたが、ほんとうは「聞く」ひとなのかもしれない。
 ちょっと(かなり?)論理がずれてしまうかもしれないが、この「書く」と「聞く」の違いは、たぶん美空ひばりの「歌う」と「聞く」の関係に似ている。美空ひばりは「歌う」。しかし、それはほんとうは「聞いた」ことを再現しているのだ。自分の「声」を出しているのではない。自分の声をいったん殺し、他人の「声」を美空ひばりをくぐらせて、出している。「他人」を全面に出しているのだ。「他人」の持っている空気を自分の中に取り込み、肺のなかであたため、少しだけ自分の体温を感じさせる形でそっと吐き出す。そのとき、「他者」と美空ひばり(谷川俊太郎)のあいだにある「空気」がかわる。
 あ、自分の「声」はこんな形になりたがっているのだ、と「他者」が美空ひばりの声や谷川俊太郎のことばを聞いて、再発見するのである。それはまったく新しいものではなく、ほんとうは「他者」の中にあったもの、そして美空ひばりや谷川俊太郎がきちんと育てて、形をあたえてくれたものだからこそ、「他者」、つまり聴衆(読者)のこころになじむのだ。

 世の中には、ほんとうに耳がいいひとがいるのだ。






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