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谷川俊太郎、伊藤比呂美、四元康祐「連詩 わたしからわたしたちへの巻」(「現代詩手帖」2008年10月号)
谷川俊太郎、伊藤比呂美、四元康祐「連詩 わたしからわたしたちへの巻」を読みながら不思議な気持ちになった。3人が連歌のように詩を書いているのだが、私には谷川俊太郎のことばだけが、とても静かに感じられたのである。伊藤比呂美と四元康祐はことばを活性化しようとして必死になっている。個性を出そうとして必死になっている。ところが谷川は少し引いている。どうぞ、2人で動いてください、と見守っている感じなのだ。
これは、昔、石川淳、大岡信、丸谷才一の連歌を読んだときの石川淳のことばの動きに似ている。大岡、丸谷のことばが飛躍するのに対して、石川淳のことばは飛躍ではなく走るのである。ほんとうはジャンプしているかもしれない。けれども、その踏切板(?)が感じられない。すーっと、足の筋を伸ばして、その伸ばした感じが前へ進む。
以前、「飛ぶ」と形容されたディープインパクトの走りを分析したら、実は飛んでいる時間(足が大地から離れている時間)は他の競走馬より短く、大地に触れている時間は逆に長いということがわかったと新聞に書いてあった。それに似ているかもしれない。たしかに空中に浮かんでいるよりも大地を直接押している時間の方が長いと、体は前へすーっと動く。筋肉の力で地上を滑るように移動するのだ。そのとき「空気」の動きが、たぶん、足が地についているだけよりくっきりと感じられ、そのために「飛んでいる」と錯覚するのかもしれない。
1
熊本の暑さはたしかに変化した
昨夜はじめて空調をかけずに眠れた
わたしたちが立ち会っているのは
季節の移る瞬間
小学生の手足みたいな 比
2
手には取れぬものを掴み取り
足には届かぬ場所へ辿り着くための
テニヲハ 康
3
鏡板の前でわっと泣き出した子
シテの声が父親の声でなくなっている 俊
伊藤比呂美の5行はいわばあいさつ。ここでは特に飛んでいるという印象はない。それは、まあ、あたりまえなのだが、いつもの伊藤のことばとら違っているなあという感じがする。その「違っている」という感じが、すでに「飛んでいる」。力が籠もっていて、何か無理があるような、読んでいる私の方が力んでしまいそうな緊張感がある。
四元康祐は伊藤の「手足」を受けたのだろうか。べたっとした接近の仕方である。たぶん、四元自身がそう感じたために、「テニヲハ」ということばでむりやり手足から離れようとしている。ここにも、やはり緊張感を感じる。「飛んでいる」のかもしれないが、「空気」のスピードが感じられず、苦しい。
これに対して谷川のことばには緊張感がない。軽々としている。
能か狂言か、古典のことはよくわからないが、稽古をしている父子。あるいは舞台そのものでもいいかもしれない。父が、家庭での父の声とは違った声を出している。それに驚いて、わっと泣き出す子供。その姿が、とても自然に目に浮かぶ。ことばに緊張感がない。たぶん、谷川は何度もそういう光景を見ているのだろう。父が父親でなくなった瞬間、子供が驚き、泣き出すという光景を。その、経験の裏付けのようなものが、どこかにある。ことばが動き出すための「大地」がある。
もしかすると、それは実際の体験というより、そういう光景はこんなことばで語るといちばんすっきりする--そういう体験、いろいろなことばを書きつづけた体験かもしれないのだけれど。
と、書いて、突然、気がつく。突然、思ってしまう。
たぶん、そうなのだろう。
どんなことばも体験(肉体)とともにあるけれど、谷川は実際の自分の体験以上のものを体験しているのだ。自分のものではない体験をことばにするという体験が、たぶん、伊藤比呂美や四元康祐よりもはるかに豊富なのだ。
ことばにするのは自分の体験でなくてもかまわない。自分(私)というものは、なくてもかまわない。そういうものがなくても、ことばはことばとして存在し、動くことができるという体験を谷川は存分に持っている。
それはなんと言えばいいのか--いま、はやりのことば(もう、はやっていないかもしれないが)を借りて言えば、「場の空気」を読み、その空気にあわせてことばを動かすという体験である。ひとに(他人に)あわせるのではない。自分にあわせるのでもない。「空気」にあわせるのだ。そこでは、へんな言い方かもしれないが「体験」というものを捨てる。身軽になって「空気」になる。空気が、そのときすーっとなめらかに動く。そういう「空気」の動かし方の体験--自分を捨てる体験が、谷川にはとても多いのだろう。
「空気」が動いた瞬間、谷川は自分の体験を超えているのだ。「空気」を体験しているのだ。
これは別のことばで言えば、自分の体験というより、自分がいまここにいる、その「場」をしっかりと踏まえるということかもしれない。「飛ぶ」のではなく、「場」を踏みしめる。「場」から離れない。「場」を移動するのではなく、「場」の「空気」を移動させる。「場」の「空気」を移動させるためには、自分が動いてしまってはどうしようもない。「空気」のなか、「空中」を飛び回ってはだめなのだ。
「自分」はそこにいたまま、ことばだけ、すーっと動かす。
抽象的に書きすぎたかもしれない。
谷川は「1」「2」を読みながら、伊藤比呂美と四元康祐の声がいつもと違っていると感じたのだろう。
だから、谷川は、ここでは「子供」を演じている。二人の「声」(詩、ことば)が、二人の声ではなくなっているのに、「わっ」と泣き出してみせたのだ。ほんとうは「父親」役なのに、ぱっと、その「役」を捨てて、「子供」になってしまう。
いやだよ、こわいよ。
泣き出すことによって、二人を「鏡板」という「場」から、いつもの「日常」の「場」へと動く。動くといっても、「鏡板」の前にいることにはかわりはない。「泣く」という「空気」の存在する「場」、「空気」そのものを変えることで、その「空気」が存在した「場」を引き寄せるのである。
伊藤と四元を、いつもの「詩」の次元へと引き戻す。
あ、すごいなあ。
ただ感嘆するしかない。「3」の2行によって、この「連詩」がほんとうにはじまる。谷川が「空気」を常に動かし、ことばを新鮮にする。「空気」を読む力が、谷川は人一倍強いのかもしれない。「空気」がどんなことばを必要としているか、それを「ことば」のかわりに感じ取る能力(へんな言い方かな?)があるのだと思う。自分が(谷川が)いいたいことを言うのではなく、ことば自身がいいたいと思っていることを感じ取り、代弁する。そうすると、谷川のことばだけではなく、伊藤比呂美、四元康祐とともにあることばも励まされて動きはじめる。「飛ぶ」のをやめて、「ことば」の筋肉を存分につかって動きはじめる。
そういう感じの「連詩」である。
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